- 著者:ポール・オースター
- 翻訳者:柴田元幸
- 出版社:新潮社
- 作品刊行日:1982/01/01
- 出版年月日:1996/04/01
- ページ数:307
- ISBN-10:410245103X
孤独の発明は、僕が最近どハマリ中の作家、ポール・オースターの処女作という事で手にとりました。気に入った作家は作品発表順に全部読んでみたくなるからです。
「孤独の発明だと!?なんと素晴らしいタイトルだ!」
孤独について魅力的に綴った『ムーン・パレス』でポール・オースターを知った僕にとって、ドンピシャで心を打つタイトルだったのです。
…この本を読み終える前までは。
「なんだ!なんなんだ、この本は!?なんて難解なタイトルで、なんて難解な内容なんだ!!」
読み終えた僕の考えはガラリと変わりました。
そうです。
孤独の発明は奇書なのです。読めば読むほど、何を読んでいるのかわからなくなる。
あれだけ読みやすかった『ムーン・パレス』と同じ作家とは思えません。
しかし、心に突き刺さる文章に出会う事もあるから、読み辞めようにも辞められない。出来ることはどれだけ読むのが遅くともページをめくり続けることだけ。
そんな感じで300ページちょっとの本を、時間をかけてゴリゴリと読んでいったわけですが、実は孤独の発明を理解するにはある行為が必要だったのです…。
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小説『孤独の発明』 – ポール・オースター・あらすじ
読書エフスキー3世 -孤独の発明篇-
あらすじ
書生は困っていた。「孤独とは二人いて初めて感じる事が出来るのさ」と仕事中に寝言を言ったせいで、独り、無料読書案内所の管理を任されてしまったのだ。すべての本を読むには彼の人生はあまりに短すぎた。『孤独の発明』のおすすめや解説をお願いされ、あたふたする書生。そんな彼の元に22世紀からやってきたという文豪型レビューロボ・読書エフスキー3世が現れたのだが…
孤独の発明 -内容紹介-
ある日そこにひとつの生命がある。たとえばひとりの男がいて、男は健康そのものだ。年老いてもいないし、これといって病気の経験もない。すべてはいままでのままであり、これからもこのままであるように思える。男は一日また一日と歩みを進め、一つひとつ自分の務めを果たし、目の前に控えた人生のことだけを夢みている。そしてそれから、突然、死が訪れる。ひとりの人間がふっと小さなため息をもらし、椅子に座ったまま崩れおちる。それが死だ。
引用:『孤独の発明』ポール・オースター著, 柴田元幸翻訳(新潮社)
孤独の発明 -解説-
むかしむかしダニエルという名前の男の子がいました、とAはダニエルという名の息子に向かって語りはじめる。そしておそらく、自分自身がヒーローであるこれらの物語こそ、息子にとってもいちばん楽しい物語なのだ。部屋に座って記憶の書を書きながらAは理解する。自分もまた自分の物語を語るために、自分自身を他者として語っているのだと。自分をそこに見出すために、彼はまず自分を不在の身にしなければならない。だから彼は、私は、と言わんとしながら、Aは、と書く。なぜなら記憶の物語とは見ることの物語だからだ。たとえ見られるべきものはもはやそこになくても、それはやはり見ることの物語なのだ。
pp.254-255
シティ・オヴ・グラスというポール・オースターの小説をご存知でしょうか?彼の2作品目の小説であり、詩人として知られていたポ…
幽霊たちはポール・オースターの3作品目ですが、前回から引き続き発表順に読んでみました。ノルウェー・ブック・クラブが200…
鍵のかかった部屋というと日本では嵐の大野くんが主演をつとめた貴志祐介原作のミステリードラマが最初に検索ヒットしますが、今…
批評を終えて
いつもより少しだけ自信を持って『孤独の発明』の読書案内をしている書生。彼のポケットには「読書エフスキーより」と書かれたカセットテープが入っていたのでした。果たして文豪型レビューロボ読書エフスキー3世は本当にいたのか。そもそも未来のロボが、なぜカセットテープというレトロなものを…。
名言や気に入った表現の引用
私は思い知った。死んだ人間の遺していった品々と対面するほど恐ろしいことはない、と。事物はそれ自体の生命をもたない。それらが意味をもつのは、それを利用する人間の人生を指し示すものとしてでしかない。人生が終わるとき、事物は変わる。それ自体としては同じであっても。それらはそこにあり、と同時にそこにない。それらは手で触れられる幽霊だ。もはや自分が属していない世界のなかで生きつづける責め苦を負った幽霊だ。
p.18
この時期、私にとって最悪だった瞬間を選ぶとしたら、それは、父のネクタイを腕いっぱいに抱えてどしゃぶりの雨のなかに出て、庭を越え表通りまでいって、ネクタイを救世軍のトラックのうしろに放り込んだときだと思う。ネクタイは百以上あったろう。その大半は、私も子供のころ見た覚えがあるものだった。模様、色、かたち、それらが父の顔と同じくらい鮮明に、幼かった私の意識のなかに埋め込まれていた。それをいまこうして、まるっきりゴミみたいに他人にくれてやっているのだと思うと、何だかたまらなくなってきた。私がいちばん涙に近づいたのも、まさにその瞬間、それらのネクタイをトラックに放り込んだ瞬間だった。棺が地中に降ろされるのを見るよりも、みずから父のネクタイを投げ捨てるという行為の方が、埋葬という理念を具現化しているように私には思えた。そのときはじめて、私は父が死んだことを理解した。
pp.22-23
死は人間の肉体をその人間から奪い取る。生にあっては、人間とその肉体は同義である。死にあっては、人間があり、それとは別に肉体がある。「これはXの遺体だ」と我々は言う。あたかもその肉体、かつてはその人物そのものだった、Xを代表するのでもXに貴族するのでもなくXという人それ自身だった肉体が、いまや突然何の重要性ももたなくなってしまったかのように。ある男が部屋に入ってくる。私は男と握手する。そのとき私は、彼の手と握手しているとは感じないし、彼の肉体と握手しているとも感じない。私は彼と握手をしているのだ。死がそれを変える。これはXの遺体だ。これはXだ、ではない。それはまったく別の構文である。それまでひとつのことについて語っていたのだ、いまや我々はふたつのことについて語っている。そこで前提とされているのは、人間そのものは依然として存在しつづけているということだ。むろん存在といっても、単にひとつの理念として、さまざまな他人の心のなかに残ったイメージや記憶が織りなすひとつの集合体として存在するというにすぎないが。そして肉体はといえば、それはもはや、単なる骨と肉以上のものではない。ただの物質の塊でしかない。
pp.24-25
私は思い知る。他人の孤独のなかに入り込むことなど不可能なのだと。わずかであれ、我々が他人を知ることができるとすれば、それは、その他人が自分を知られることを拒まないかぎりにおいてなのだ。
p.34
金があるということの意味は、物を買えるという点にとどまるものではない。それは、自分が世界から影響されずに済むということでもあるのだ。
p.90
「子供はつねに、親を過小評価するか過大評価するかそのどちらかであるものだ。よい息子にとっての父は、尊敬すべき客観的理由が父にあるかどうかとはまったく無関係に、つねに最良の父親なのだ」(プルースト)
p.103
父に言わせれば、人は仕事をすることによって世界の一部となる。そして定義上、仕事とは金をもたらすものである。もし金がもたらされなければ、それは仕事ではない。
p.104
矛盾というものの、奔放な、神秘的というほかない力。それぞれの事実が次の事実によって無化されることを私はいまや理解する。それぞれの想いが、それと同等の、反対の想いを生み出す。いかなる陳述も限定なしで行うことはできない。彼はいい人間だった。彼は悪い人間だった。彼はこれだった。彼はあれだった。どれも等しく本当なのだ。
p.105
走行計は六十七マイルを示していた。それは偶然、父の年齢でもあった――六十七歳。そのあまりの短さに、私はつくづく情けなくなった。あたかもそれが生と死のあいだの距離であるような気がした。ちょっと隣り町まで、というのとほとんど変わらない、ほんのささやかなドライブ。
p.113
何もかもが奇跡なのだよ。現代ほど驚きにあふれた時代はかつてなかったのだよ
p.145
部屋に引きこもることはその人間が盲になったことを意味するものではない。発狂したということは言葉を失ったことを意味するのではない。おそらくはむしろ、部屋こそがヘルダーリンを人生に復帰させたのだ。部屋こそが、残されていた生を彼に返してくれたのだ。
p.162
今日起きることは昨日起きたことの一変形にすぎない。昨日は今日のこだまを響かせ、明日は来年起きることの予兆となる。
p.190
奇術師ほど醒めた生き方から遠い人間はいない。自分がやることすべてがペテンであることを彼は知っているし、ほかの誰もが知っている。要は人はだますことではなく、人を喜ばせ、だまされてもいいという気持ちにさせることなのだ。それによって、数分のあいだ因果関係をめぐる注意力は弱められ、自然の法則は忘れられる。パスカルが『パンセ』で書いているように――「奇跡を合理的に否認することは可能ではない」
p.196
あらゆる書物は孤独の象徴だ。それは手にとり、置き、開き、閉じることができる物体である。そこに収められた言葉たちは、何か月、ときには何年にも及ぶ、一人の人間の孤独を体現している。だから、ある書物を一語読むごとに、人はその孤独を形成する一個の分子と向きあっていると言ってよいだろう。一人の男が独りきりで部屋に座り、書く。その本が孤独について語っていようが他人とのふれ合いについて語っていようが、それは必然的に孤独の産物なのだ。Aは自分の部屋に座り、他人の書物を翻訳する。あたかも他人の孤独のなかに入り込み、それを自分のものにしようとするかのように。だがもちろんそんなことはありえない。なぜなら、ひとたび孤独が破られてしまえば、ひとたび孤独が他人によって引き受けられてしまえば、それはもはや孤独ではない。それは一種のふれ合いである。部屋のなかには一人しかいない。だがそこには二人いるのだ。
p.223
ポンジュにとっては、書く行為と見る行為のあいだに何の隔たりもないのだ。いかなる言葉もまず見られることなしに書かれえない。ページにたどり着く前に、それはまず身体の一部になっていなければならない。心臓や胃や脳を抱えて生きてきたのと同じように、まずはそれを物理的存在として抱えて生きなくてはならないのだ。だとすれば記憶というものも、我々のなかに包含された過去というより、むしろ現在における我々の生の証しになってくる人間がおのれの環境のなかに真に現前しようと思うなら、自分のことではなく、自分が見ているもののことを考えねばならない。そこに存在するためには、自分を忘れなくてはならないのだ。そしてまさにその忘却から、記憶の力が湧き上がる。それは何ひとつ失われぬよう自分の生を生きる道なのだ。
pp.227-228
小説を読むとき人は、ページに書かれた言葉の向こうに意識的精神がひそんでいることを前提とする。だがいわゆる現実世界での出来事を前にするとき、人は何も前提としない。作られた物語がすべて意味から成り立つ一方で、事実の物語はそれ自身の向こう側に何ひとつ意義をもたない。もし誰かに「私はエルサレムに行くんです」と言われたら、人は思う。そいつはいい、この人はエルサレムに行くんだ、と。だがもし小説の登場人物が同じように「私はエルサレムに行くんです」と言ったとしたら、反応はまったくちがってくる。人はまず、エルサレムという土地について考える。その歴史、宗教的意義、神話的な場としての機能。過去を考え、現在を考える(政治――それもまた近い過去を考えることだ)。そして未来を考える。たとえば「来年エルサレムで」という言い回し。そしてさらに、そうやって考えたもろもろの事象を、エルサレムに行こうとしている人物について自分がすでに知るところと組み合わせて、でき上がった新たな統合を用いてさらなる結論を引き出し、認識を精緻にし、その作品全体についていっそう納得いく見解をつくり上げていくのである。そしてまた、ひとたび作品が読み終えられ、最後のページが読まれ書物が閉じられるとともに、今度は解釈がはじまる。心理的、歴史的、社会的、構造的、文献学的、宗教的、性的、哲学的解釈。それらを自分の好みに従って、単独に、あるいは複数を組みあわせて用いるのだ。もちろん現実の人生だって、そうしたシステムに基づいて解釈することは可能である(考えてみれば司祭や精神科医に話を聞いてもらうのはまさにそういうことだし、人間が歴史的状況に基づいて自分の人生を理解しようとすることも珍しくない)。だがその効果は同じではない。何かが欠けてしまうのだ――壮大さ、根本的なるものを捉えたのだという手応え、形而上的心理の幻影とでもいうべきものが。
pp.240-242
老人は、法廷でやるように、抗弁、反論、祥子の提示といった論理的手続きを通して商人を弁護しようとするのではない。そんなことをしたところで、すでに見えているものを魔神にもう一度見させるだけだろうし、それについて彼の心はもう定まっている。そうではなく、老人は魔神の関心を事実からそらそうとするのである。死の思いから彼の注意をそらし、彼を喜ばせるのだ(喜ばせる= delight は字義どおりには「誘い出す」――ラテン語の delectare ――という意味)。そしてその結果、生に対する見方を改めさせ、何が何でも商人を殺すのだという執念を捨てさせるのである。そのような執念は人を孤独のなかにとじ込めてしまう。自分の思考以外何ひとつ見えなくしてしまう。これに対し、物語というものは、それが論理的議論ではないからこそ、それらの壁をうち破る力をもつ。なぜなら物語は他者の存在を前提としているのであり、聞き手は物語を通してその他者たちとふれ合うことができるからだ――たとえそのふれ合いが思考のなかのものにすぎなくても。
p.250
たまたまこのアメリカ人医師がキャンプの病院で仕事中に、カーター夫人の一行が現れた。病院といっても間にあわせの掘立小屋であり、藁ぶきの屋根に梁が二、三本あるだけ、患者たちは地面に直接敷いたマットの上に寝かされている。そこへ大統領夫人が、役人やら新聞記者やらカメラマンやらの大群を従えてやって来たのだ。その人数たるや実にすさまじく、一行が病院を通過するなかで、患者の手は思い西洋式の靴に踏みつけられ、点滴のチューブは通りすがりの脚にひっかかって外れ、体は不注意に蹴飛ばされた。このような混乱が避けうるものだったかどうかはわからない。いずれにしろ、訪問者たちが視察を終えた時点で、このアメリカ人医師は彼らに要請した。どうかお願いです、どなたか少しのあいだ時間を割いて、献血をしていただけないでしょうか。カンボジア人の血は、いちばん健康な人間の血でも薄すぎて使えないのです。もう血液の蓄えがなくなってしまったのです、と。だがファースト・レディの一行はスケジュールに遅れていた。その日のうちにまだほかにも行くべき場所があり、もっとたくさんの苦しむ人々を見なければならなかった。時間がないんです、と彼らは答えた。残念ですが。まことに残念ですが。訪問者たちはそう言い残して、来たときと同じようにあわただしく去っていった。
pp.257-258
いやしくも正義というものがあるとするなら、それは万人のための正義でなくてはならない。誰一人排除されてはならない。さもなくば正義というものもありえない。
p.263
孤独の発明を読みながら浮かんだ作品
レビューまとめ
ども。読書エフスキー3世の中の人、野口明人です。
ポール・オースターの作品を順番に読んでいくとして、手にとった一番めの作品『孤独の発明』でしたが、まさかここまで読むのに苦労すると思いませんでした。
そして「レビュー、マジで何書いたら良いの!?」って状態でここまで困ったのも久しぶりでした。
読書エフスキーには、映画でニュースを見ている感じなんて語らせましたが、感覚としては世界史の教科書を読んでいるみたいな感じでした。一本筋でまとめてくれたら読みやすかったのだけれど…っていう。
ただ、これを読むことによって、今後のポール・オースターの作品に対する理解が深まる事は確かなので、ポール・オースターの作品を何冊か読んだ後に手にとってみると面白い作品だと思います。
あ、それと吉本ばななが解説を書いてくれているんですけど、やっぱり面白い感性していますね。父と子の関係性について語っていて、ポール・オースターは自分の父をそこにいるのにそこにいない人として捉えていましたが、実は結構どこにでもいる普通のお父さんだったんじゃないか?みたいな事を書いていました。
確かに父親って、近くにいるようで謎の存在だったりしますもんね。吉本隆明を父に持つ吉本ばななが言うと説得力があります。
大人になってから、父親とはなんと自分とは真逆の性格なんだ、近寄ろうにも全く受け付けない何かがあるなと感じるようになった僕としては、その説に一票。
それにしても振り返ってみれば『見えない人間の肖像』と『記憶の書』では『見えない人間の肖像』の方が確かに読みやすく面白かったんですが、後々になって何度も思い出すことになるのは『記憶の書』のような気がします。
難解でしたが、部分的に心に刺さる強度が凄まじかったので。ふう。疲れたー。
ではでは、そんな感じで、『孤独の発明』でした。
ここまでページを閉じずに読んで頂いて本当にありがとうございます!
最後にこの本の点数は…
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孤独の発明 - 感想・書評
孤独の発明¥ 680
- 読みやすさ - 52%52%
- 為になる - 78%78%
- 何度も読みたい - 63%63%
- 面白さ - 73%73%
- 心揺さぶる - 70%70%
読書感想文
前半と後半であまりにも書き方が変わるので、評価が難しい所ですが、両方の中央点をとって点数をつけました。なので総じて評価が低くなっちゃっていますが、点数ほどには悪い作品ではないと思います。ポール・オースターの5冊目ぐらいに手に取ったらちょうどよいかも。