『ムーン・パレス』でポール・オースターをランキング入り!

ムーン・パレスというポール・オースターの小説を読み終えた時、自分の好きな作家ランキングがガタンと変わった気がした。

なんて自分好みの小説なのだろう。なんて自分好みの書き方なのだろう。芥川龍之介、太宰治、谷崎潤一郎、村上春樹、伊坂幸太郎、森見登美彦、光原百合など日本の作家の日本語独自の言い回しが好きな僕が、まさか海外作家のポール・オースターにここまで惹かれるとは思わなかった。

おそらくそれは柴田元幸という訳者の力も関係しているように思うのだけれど、この小説はとにかく言葉のチョイスがたまらない。初めて南海キャンディーズの漫才を見た時のような衝撃。ひとつひとつの言葉が非常に洗礼されている。

タイトルだってそう。

あなたは、ムーン・パレスというタイトルを見た時にどんな内容を思い浮かべますか?それがコロンビア大学付近に実在した○○○○○の名前だなんて思いつける人がいるのだろうか。

それでいて「それは人類が初めて月を歩いた夏だった。」から始まり「夜空に上がっていく月に僕はじっと視線を注ぎ、それが闇のなかにみずからの場を見出すまで目を離さなかった。」という月に関連した結びで終わるのだから堪らない。

ムーン・パレスとはなんなのか。この本についてじっくりレビューしていくことにしましょう…。

スポンサードリンク

小説『ムーン・パレス』 – ポール・オースター・あらすじ

ムーン・パレス
4.3

著者:ポール・オースター
翻訳:柴田元幸
出版:新潮社
ページ数:532

父親を知らず、母親も早くに事故で亡くしたM・S・フォッグは、大学生の時に唯一の血縁だった伯父さんでさえも失ってしまう。自暴自棄に陥り、貯金を使い果たした彼は公園で残飯を漁る生活をおくるようになった。餓死寸前まで追い詰められた彼は友人に救われ、新しく車椅子の老人を相手にする職についた。人類がはじめて月を歩いた夏。孤独と悲しみとその偶然性をバランスよく描いた3人の男の物語…

読書エフスキー3世 -ムーン・パレス篇-

前回までの読書エフスキーは

あらすじ
書生は困っていた。「好きになってしまったんです!と声を」と仕事中に寝言を言ったせいで、独り、無料読書案内所の管理を任されてしまったのだ。すべての本を読むには彼の人生はあまりに短すぎた。『ムーン・パレス』のおすすめや解説をお願いされ、あたふたする書生。そんな彼の元に22世紀からやってきたという文豪型レビューロボ・読書エフスキー3世が現れたのだが…

ムーン・パレス -内容紹介-

無料読書案内の書生
大変です!先生!ポール・オースターの『ムーン・パレス』の事を聞かれてしまいました!『ムーン・パレス』とは一言で表すとどのような本なのでしょうか?
読書エフスキー3世
“3世代の男の自叙伝”デスナ。又は“孤独と絶望と偶然の物語”デスカナ。
無料読書案内の書生
…と、言いますと?正直な所『ムーン・パレス』は面白い本なのでしょうか?

 それは人類がはじめて月を歩いた夏だった。そのころ僕はまだひどく若かったが、未来というものが自分にあるとは思えなかった。僕は危険な生き方をしてみたかった。とことん行けるところまで自分を追いつめていって、行きついた先で何が起きるか見てみたかった。結果的に、僕は破壊の一歩手前まで行った。

引用:『ムーン・パレス』ポール・オースター著, 柴田元幸翻訳(新潮社)

読書エフスキー3世
コンナ一文カラ始マル“ポール・オースター”ノ1989年の長編小説デス。読メバワカリマス。
無料読書案内の書生
えーっと、それでは困るのです。読もうかどうか迷っているみたいですので。ちょっとだけでも先生なりのご意見を聞かせていただきたいのですが。
読書エフスキー3世
読む前にレビューを読むと変な先入観が生マレテシマイマスノデ…
無料読書案内の書生
ええい、それは百も承知の上!先生、失礼!(ポチッと)
読書エフスキー3世
ゴゴゴゴゴ…悪霊モードニ切リ替ワリマス!
無料読書案内の書生
うぉおおお!先生の読書記録が頭に入ってくるぅぅー!!

ムーン・パレス -解説-

読書エフスキー
読書はいいですね。
書生
どうしたんですか、急に。
読書エフスキー3世
久しぶりに自己投影出来る作品に出逢えました。
書生
自己投影?
読書エフスキー3世
今まで読書をしていて、「面白いなぁ〜!」と思う作品はいくつもありました。
書生
ふむ。
読書エフスキー3世
「これはすごい!!この作者、天才なんじゃないか!!」と思う程感嘆した作品もいくつもありました。
書生
はぁ。
読書エフスキー3世
しかし、「これはまさに自分の事を書いている!」と思える作品はそうそう出逢えないものです。
書生
確かに。
読書エフスキー3世
君は今まで、この本、自分の事書いているなぁ…と感じた作品はありますか?
書生
えーっと、そうですねぇ。大学生の時に何度も繰り返し読んだ太宰治の『人間失格』の葉蔵には自分を重ねて読んでいましたね。
読書エフスキー3世
あー、大庭葉蔵ですか。君は画家になりたかったんですか?
書生
いえいえ。家は別に金持ちではないですし、自分自身、女性が寄ってくるほどの美男子ではないですが、葉蔵の考え方というか、感じ方が自分にすごく似ていると思ったんですよ。子供の頃の道化じみた部分なんてまさに。
読書エフスキー3世
つまりはそういう事ですよね。自己投影って。
書生
ん?
読書エフスキー3世
今回の作品『ムーン・パレス』はコロンビア大学の学生の話です。私は別に大学生ではないですし、彼が体験した事を経験した事はありません。ですが、彼の発する言葉や考え方がまるで自分のもののように感じるのです。
書生
彼が体験した事というのは何なのですか?今回の話はどんな内容なのですか?
読書エフスキー3世
そうですね、まずはそこからお話していく事にしましょう。『ムーン・パレス』の主人公、マーコ・スタンリー・フォッグは私生児であり、父親がいませんでした。
書生
ふむ。主人公はマーコ。
読書エフスキー3世
母親と一緒にボストンで暮らしていましたが、11歳の時に雪でスリップしたバスに轢かれて母親は亡くなってしましました。
書生
ひゃ…。悲惨。
読書エフスキー3世
それからは叔父のビクターと一緒に暮らしていました。ビクターはクラリネット奏者。各地を転々として生計を立てている。
書生
ふむ。
読書エフスキー3世
小さい時はビクターについて引っ越しをしていましたが、高校生で寮生活をすることをきっかけには別々に暮らすことになりました。母親の保証金もありましたし。その時ビクターは主人公に1492冊の本を送りました。
書生
1492冊!?
読書エフスキー3世
ええ。ビクターが今まで読んだ本です。主人公は断りましたが、頑として聞かず、寮生活を終えた大学生2年生の始め、一人暮らしを始めた新しい住まいにはその本がぎっしり詰まったダンボールが部屋を埋めました。
書生
うわー。結構な数のダンボールだったでしょうね。
読書エフスキー3世
主人公はダンボールの封を切らず、それを家具として扱いました。ある時はマットレス。ある時はテーブル。ある時は椅子という具合いに。なにせ76箱ありましたからね。
書生
ほほう。アイディア次第で箱はどんな形にもなるんですね。
読書エフスキー3世
そんな風に生活をしながら、時々ビクターから届く絵葉書を楽しみに暮らしていました。ただ、ある日なんとも要領を得ない手紙が届きました。そこにはどうやらビクターがやっていたバンドは解散し、生活もうまく行っていないような事が書かれていました。
書生
音楽で食べていくのも大変ですねぇ…。
読書エフスキー3世
主人公はビクター伯父さんに一緒に住もうと電報を打ちました。そして感謝の言葉と家につく予定の日にちの返事が返ってきました。ですが、予定の日にちを過ぎてもビクターは現れません。
書生
ま、まさか…。
読書エフスキー3世
ビクターは心臓発作で亡くなってしまうのです。
書生
うわあああーーーーーーーーーー
読書エフスキー3世
主人公の心はここで壊れてしまう。つらい日々を過ごし、お金を浪費する。そのうち経済状況は悪化。大学卒業も危うくなっていきますが、ビクター伯父さんとの約束、大学卒業は必ずするという事だけは守ろうとなんとかやりくりしていきます。
書生
神様なんていないんだ…。ぷえぇーー。
読書エフスキー3世
すべての親族との繋がりを失ってしまった主人公。彼はそれまでずっと開けずにいたダンボールの封を開け、ビクターが読んできた本をすべて読むことを決意します。そして読み終わった本を売って生活する。
書生
本を売って…。でも本ってそんなに高く売れるものなんでしょうか。
読書エフスキー3世
もちろん、本は主人公が思うほど高くは売れませんでした。やがて所持金も底をつき始めます。食事も倹約し、一日を卵二個などでやり過ごすなんて事も出てくるわけですが、ここらへんが非常に面白い
書生
ほほう。
読書エフスキー3世
その卵を床に落としてしまうシーンなんて、文字なのに読んでいて映像がまじまじと脳裏に浮かんできます。どろっと白身が床に吸い込まれていく。それを見つめる主人公の姿が。
書生
卵二個で死にそうになる描写…。ふおお。
読書エフスキー3世
そしていよいよ家からも追い出され、ホームレス生活。
書生
ホームレス…。
読書エフスキー3世
私はここらへんからちょっと前に読んだ『透明人間の告白』の逃亡生活の事を思い出しましたね。内容は全く違うものですが、家を失った人間がどうやって生き延びていくのかって、非日常的でありながら、そそられる内容ですよね。
書生
透明人間の告白ですか。懐かしいですねぇ…。本の雑誌が選ぶ30年間のベスト30の第1位でしたよね。
読書エフスキー3世
私は『ムーン・パレス』をここまで読み進めた頃、この本はこんな感じで主人公のサバイバルな小説なんだなと思っていました。でもこれはほんの序章に過ぎないのです。
書生
ん?
読書エフスキー3世
『ムーン・パレス』はですね、三人の男の自叙伝的なものが主軸となって、偶然と偶然の混ざり合いが見事にマッチした孤独との奮闘記なんです。
書生
偶然と偶然の混ざり合い?
読書エフスキー3世
ええ。なんというかですね、たまにあるじゃないですか。出来すぎだろ!?っていう偶然の連続した作品。あーゆー類に属するとは思うのですが、なぜかこの作品の中の偶然は必然だったのではないか?と思いたくなる作者の力量がある作品なんですよね。
書生
ご都合主義の偶然って読んでいて冷めますものね。
読書エフスキー3世
ポール・オースターは『偶然の音楽』という作品を次に書いているのですが、偶然の重要性を充分に理解していると思うのです。だからこそ、この作品も偶然から生じたストーリー展開によって、良い方面だけではなく悪い方面も描いている。
書生
むむ。段々話が難しくなってきたでござる。
読書エフスキー3世
えーっとですね、つまりは人生なんてものはすべてが偶然によって成り立っているのです。でもリアルの世界でそれがご都合主義に見えないのは、その偶然が良い方に転ぶことも悪い方に転ぶこともあるからではありませんか?
書生
事実は小説よりも奇なりと詩人バイロンも申しておりまする。
読書エフスキー3世
この小説も偶然の連続によって成り立っていますが、それが必ずしも良い方向に転んでいないんですよ。常に一緒に悪い面も携えて訪れる。だからこそよりリアルで調和を保った偶然性のストーリー展開になっていると私は思うのです。
書生
うーむ…。内容を読んでみない事には良くわからないですが、とりあえずストーリーはこれからどう展開していくんですか?
読書エフスキー3世
ホームレスを友人の力によってなんとか脱出した主人公は、仕事に就きます。それは車椅子に乗ったおじいちゃんの手伝いをすることでした。
書生
車椅子のおじいちゃんの手伝い?老人ホーム?
読書エフスキー3世
えーっと、金持ちのおじいちゃんでお手伝いさんは別にいます。主人公の手伝いは言ってみれば、おじいちゃんの話し相手です。このおじいちゃんは盲目なのです。なので代わりに目になって、見えるものを口で説明したりする手伝いをするのです。
書生
金持ちの話し相手かぁ…。難しそうだなぁ。
読書エフスキー3世
まぁ、イメージどおりこのおじいちゃんは相当頑固で主人公もだいぶ絞られます。でも辞めずに続けるんですね。そしておじいちゃんは自分の過去の話を語り出すのです。なぜ自分が車椅子の生活になったのか…。
書生
ほう。それが最初に言っていた三人の男の自叙伝の二つ目ですか。
読書エフスキー3世
ええ。そうなりますね。…と、ストーリーのあらすじ的なものはここらへんで終わりにしておきましょう。別にネタバレをしても充分に楽しめる作品ですが、あらすじを知らなければ楽しめない作品というわけでもないですし。
書生
えー!第三の男がまだ出てきていないじゃないですか!
読書エフスキー3世
どうしてもあらすじが知りたいのであれば、Wikipediaに書いてありますので、そちらをどうぞ。しかしそこには小説のネタバレも含まれているので、読み終わってから読む事をおすすめします
書生
うーむ。ネタバレかぁ…。でもこれは推理小説ではないんですよね?
読書エフスキー3世
ええ。この小説は青春小説になるんですかね。ジャンル分け的に。
書生
青春小説かぁ…。ライ麦畑でつかまえてとかそういう感じ、ちょっと苦手だったんですよね。主人公の思考回路がネジ曲がりすぎて。
読書エフスキー3世
個人的にはこの主人公の言い回しは大好きですね。ひとつの事を表現するにも面白い書き方をするので、読んでいて飽きません。主人公は別にへそ曲がりってわけでもないですし。
書生
ほほう。
読書エフスキー3世
孤独と悲しみに溢れ、絶望が描かれていますが、ある脳科学者が言うには絶望の後にしか人は希望を見いだせないらしいです。なのでね、この小説は読んだ後になんとも言えない生きる希望みたいなのを感じられる小説です。苦しくとも少しずつ前進する人の生命力というか。
書生
今日の先生は基本的に抽象的な感想が多いですね。
読書エフスキー3世
まぁ、今回の作風がそういう内容なので。ガーッと引っ張っていく強いストーリーがあるわけではありませんし、カチッとハマるラストを迎えるわけでもありません。でも奥深くに流れる何かを感じ取る系の小説ですね。
書生
ますますこの作品がわからなくなってきました。
読書エフスキー3世
様々なレビューを読んでみましたが、村上春樹の作品が好きな人が多くレビュー書いていましたね。だから日本作家で言えば、あーゆー感じなのかもしれません。もうちょっと純文学寄りだとは私は思いますが。
書生
村上春樹ですか。大学生1年生の夏休みに彼の作品を全部読みましたよ。図書館で一目惚れした女の子が村上春樹とジュディマリが好きって言ったので、JUDY AND MARYのLOVER SOULをお風呂で流しながら読書にふけた夏。
読書エフスキー3世
あー、そんな君はきっとこの作品に出てくるキティ・ウーというヒロインは好きになると思いますよ。私はちょっと許せませんでしたけれども…。
書生
ふふふ。小春ちゃんの魅力には決して勝てまい。
読書エフスキー3世
小春ちゃんという方なのですか。…それにしても、そもそも図書館で一目惚れした人がどうして村上春樹やJUDY AND MARYを好きだって知ったのです? も、もしやストー…
書生
いえいえ、ちゃんと…

批評を終えて

読書エフスキー
以上!白痴モードニ移行シマス!コード「ストーク・コワイデ・ポルズンコフ!」
無料読書案内の書生
「好きになってしまったんです!と声を」…って、あれ?僕は一体何を…。
職場の同僚
何をじゃないよ!仕事中に居眠りこいて!一体誰を好きになったんだよ。
無料読書案内の書生
え?あれれ?読書エフスキー先生は?
上司
誰だそれ。おいおい。寝ぼけ過ぎだぞ。罰として一人でここの案内やってもらうからな!
無料読書案内の書生
えーっ!?一人で!?で、出来ないですよ〜!!
上司
寝てしまったお前の罪を呪いなさい。それじゃよろしく!おつかれ〜
無料読書案内の書生
ちょっ、ちょっと待って〜!!…あぁ。行ってしまった。どうしよう。どうかお客さんが来ませんように…。
お客さん
…あのすいません、ムーン・パレスについて聞きたいんですが。
無料読書案内の書生
(さ、早速お客さんだーっ!!ん?でも待てよ…)いらっしゃいませー!ポール・オースターの作品でございますね。おまかせくださいませ!
 あとがき


いつもより少しだけ自信を持って『ムーン・パレス』の読書案内をしている書生。彼のポケットには「読書エフスキーより」と書かれたカセットテープが入っていたのでした。果たして文豪型レビューロボ読書エフスキー3世は本当にいたのか。そもそも未来のロボが、なぜカセットテープというレトロなものを…。
読書エフスキー
ウィンク。パチンパチン。

名言や気に入った表現の引用

書生
「一杯の茶を飲めれば、世界なんか破滅したって、それでいいのさ。by フョードル・ドストエフスキー」という事で、僕の心を震えさせた『ムーン・パレス』の言葉たちです。善悪は別として。

母はたまにひどくおかしい冗談を言うことがあって、そんなとき僕はきゃっきゃと騒々しく笑ったものだが、それはごくまれな、惑星同士がしかるべき位置関係に来た場合にのみ生じる出来事だった。

p.12

伯父さんが僕の名にいろんな意味を付与してくれたおかげで、転校生としてのつらい最初の何週間かを切り抜けるのも少しは楽になった。子供たちがまっさきにからかうのは名前である。

p.17

十八歳というのは恐ろしい年齢である。自分はクラスメートの連中よりも大人なんだ、と僕はわけもなく確信してふるまっていたが、実のところはただ、若くあることの別の方法を見出していたにすぎなかった。

p.33

それはブロードウェイだった。ブロードウェイをもっとも小さく、もっとも縮約した風景だった。しかも、僕の部屋から見えるその風景全体が、一つのネオンサインによって埋めつくされていたのだ。ピンクとブルーの文字が煌々と燃えて、MOON PALACEという言葉を書き出していた。それが通りに面した中華料理店の看板であることはすぐにわかった。けれども、その言葉があまりに唐突に襲ってきたせいで、僕にとってはいっさいの現実的な意味も関係も吹き飛んでしまった。それらは魔法の文字だった。闇のなかにぽっかりと、空それ自体からのメッセージとして浮かんでいた。ムーン・パレス。僕はすぐさま、ビクター伯父さんとその楽団のことを考えた。その字が目に入ったとたんの、理屈を超えた一瞬のうちに、僕にのしかかっていた恐怖感がすうっと離れていった。いままで味わったことのない、突然の、絶対的な経験だった。がらんとした陰気臭い部屋が、いまや霊的なるものの住む場となった。不可思議な前兆と、神秘的で予測不能の出来事が交叉する地点となった。僕はなおもムーン・パレスの看板に見とれていた。そして徐々に理解した。僕は正しい場所に来たのだ、と。この小さなアパートこそ僕が住むべき場なのだ。

pp.35-36

 最終的には、問題は悲しみではなかった。はじめはそうだったかもしれないが、じきにそれは何か別のものに変わっていった。もっとはっきり手ごたえのある、目に見える影響力をもった、暴力的な傷をもたらす何ものかに。さまざまな力の連鎖がはじまっていた。ある時点で、僕は安定を失い出した。自分自身のまわりを僕はぐるぐる旋回しはじめた。その輪は次第に大きくなっていき、やがて僕は軌道の外に飛び出してしまったのだ。

p.40

僕にとって、本とは単なる言葉の容器ではなく言葉それ自体であり、したがって本の値打ちも、その物理的状態ではなく精神的内容によって決められるべきものだった。

p.47

それぞれの欠乏が生み出す隠れた利点を僕は探し出し、ひとたび何かなしで暮らすすべを会得すると、その何かを綺麗さっぱり頭から追い払ってしまうことができた。もちろん、こんな調子でいつまでもやって行けるわけではないことも承知していた。いずれは、なしでは済まない物だけが残るだろう。でも目下のところは、なくなってしまった物たちを惜しむ気持ちがほとんど湧いてこないことに、我ながら呆れてしまうくらいだった。ゆっくりと、着実に、僕は発見しつつあった。自分がとことんやって行けることを。思ってもみなかったほど遠くまで行けることを。

pp.53-54

ある意味で、彼らは僕の経験の意味を一から書き換えてくれたのだ。僕は崖っぷちから飛び降り、もう少しで地面と衝突せんとしていた。そしてそのとき、素晴らしいことが起きた――僕を愛してくれる人たちがいることを、僕は知ったのだ。そんなふうに愛されることで、すべてはいっぺんに変わってくる。落下の恐ろしさが減るわけではない。でも、その恐ろしさの意味を新しい視点から見ることはできるようになる。僕は崖から飛び降りた。そして、最後の最後の瞬間に、何かの手がすっと伸びて、僕を空中でつかまえてくれた。その何かを、僕はいま、愛と定義する。それだけが唯一、人の落下を止めてくれるのだ。それだけが唯一、引力の法則を無化する力を持っているのだ。

p.94

ひとたび人生を投げ捨ててしまえば、これまでまるで知らなかったこと、ほかの状況では決して知りえないことを、人は発見するのではないだろうか。

p.108

いいことが起きるのは、いいことが起きるのを願うのをやめた場合に限られるという事実を発見した。これが正しいとすれば、逆もまた真ということになる。すなわち、物事が起きるのを願えば願うほど、それが起こるのを妨げてしまうのだ。論理的にはそうなる。すでに実証したように世界を引きつける力が僕にあるとすれば、世界を退ける力だって僕にはあるはずだ。換言するなら、欲しいものを手に入れるには、それを欲しがってはならないのである。

pp.108-109

宇宙を支配しているのはもはや、隠れた創造者たる因果律ではなかった。下は上であり、最後は最初であり、終わりは始まりなのだ。ヘラクレイトスはいまや糞の山から救出された。彼の教えこそ、もっとも単純にして明快な真理にほかならない――現実とは上下に揺れつづけるヨーヨーであり、変化こそが唯一の定数なのだ。

pp.114-115

自分では勇気をもって行動してきたつもりだったのに、結果的には単に、とことん卑屈な臆病ぶりを露呈しただけのように思えてきた。僕はただ、世界を蔑む思いに一人酔いしれ、物事を正面から見据えるのを避けてきただけではなかったのか。いまや湧いてくるのは自責の念ばかりだった。自分の馬鹿さ加減が身にしみて感じられた。ジンマーのアパートで毎日を過ごし、少しずつ自分を立て直しているうちに、人生を一からやり直さなくてはという気持ちが湧いてきた。僕はこれまでの過ちを贖いたかった。いまでも僕のためを思ってくれる人たちに償いをしたかった。僕は自分が嫌になっていた。

p.132

内容的にはまったく無意味な仕事だったからこそ、そこに価値が生じたともいえる。これなら、鎖につながれて重労働の刑に服す人間のような気持ちになれる。僕の仕事はハンマーをふるって石を細かく砕くことであり、全部砕けたら、それをさらに細かく砕くことなのだ。この労働に目的は存在しない。でも僕は、結果なんかに興味はなかった。労働それ自体が目的だった。模範囚の決意をもって、僕は我を忘れて仕事に没頭した。

p.162

太陽は過去であり、地球は現在であり、月は未来である

p.172

物事はしばしば見かけとは違っているのです。早合点をすると、厄介なことになりかねません。

p.181

この世界のものはすべて、生物も無生物も、電気でできている。思考だって電荷を放出するんだ。その電荷が十分強ければ、人間の思考はまわりの世界を変えることができるのさ。

p.184

目を使え、目を! わしは何も見えんのだぞ、なのに何だ貴様は、『ごくあたりまえの街灯』だの『何の変哲もないマンホールのふた』だの! この世に二つと同じものはないんだぞ、馬鹿野郎。どんな阿呆だってそのくらい知っとるわい。しっかり目を開けてみろ、あほんだら、ちゃんとわしの頭のなかに見えてくるように説明せんか!

p.212

僕は決して有能な説明役ではなかった。これまで自分が、物をじっくり見ることをいかに怠ってきたかを僕は痛感した。いざ命じられてやってみると、その出来栄えたるや惨憺たるものだった。僕にはそれまで、何ごとも一般化してしまう癖があった。物同士の差異よりも、類似のほうに目が行きがちだった。それがいま、無数の個別性から成る世界に放り込まれて、五感が直接受けるデータを言葉によって再現しようとあがいてみると、自分の無能ぶりをつくづく思い知った。

pp.212-213

世界は目を通して我々のなかに入ってくる。だが、それが口まで降りてこなければ、世界を理解したことにはならない。

p.214

どこでもない場所のど真ん中の、なんにもない荒野に、独りぼっちで何か月も何か月も……まる一生だよ。そういうことはな、一度やったら絶対に忘れられるもんじゃない。わしはどこへも行く必要なんかないんだ。ちょっとでも考えれば、とたんにもうそこに戻っているんだから。このごろじゃ一日の大半はそこにいるのさ――どこでもない場所のど真ん中に戻っているんだよ

p.222

いったん未来を味わってしまったら、人間、後戻りできるもんじゃない。

p.263

〈ここ〉は〈そこ〉との関連においてのみ存在し、その逆ではない。〈これ〉があるのも〈あれ〉があるからだ。上を見なければ、下に何があるかはわからない。考えてみたまえ。自分でないものを仰いではじめて、我々は自分を見出すんだ。空に触れなければ、大地に足を据えることもできない

p.271

万策尽きた人間が、声を限りに叫びたくなる。至極当然の話ではないか。肺のなかで空気がどんどん膨らんでいき、そいつを追い出さないことには息もできないのだ。ありったけの力をこめてそいつを吠え出してしまうしかないのだ。さもなければ、みずからの息で窒息してしまう。大気そのものに息の根を止められてしまうのだ。

p.291

芸術の真の目的は美しい事物を作り出すことではない、そう彼は悟った。芸術とは理解するための手立てなのだ。世界に入り込み、そのなかに自分の場を見出す道なのだ。

p.298

図書館というのは現実世界の一部じゃありませんからね。浮世離れした、純粋思考の聖域です。

p.375

僕らはつねに間違った時間にしかるべき場所にいて、しかるべき時間に間違った場所にいて、つねにあと一歩のところでたがいを見出しそこない、ほんのわずかのずれゆえに状況全体を見通しそこねていたのだ。要するにそういうことに尽きると思う。失われたチャンスの連鎖。断片はあじめからすべてそこにあった。でもそれをどう組み合わせたらいいのか、誰にもわからなかったのだ。

p.429

自分の中の醜さと残酷さを思い知った僕は、たまらなく自分が嫌になった。もうこれ以上やって行けなかった。自分という人間に耐えられなかった。

p.484

僕にはいまや目的があるのだ。何かから逃げているのではなく、何かに向かっているのだ。

p.519

答えはすでに僕の歩みのなかで形成されていた。僕はただ歩きつづければよいのだ。歩きつづけることによって、僕自身をあとに残してきたことを知り、もはや自分がかつての自分でないことを知るのだ。

p.525

読書エフスキー
引用:『ムーン・パレス』ポール・オースター著, 柴田元幸翻訳(新潮社)

ムーン・パレスを読みながら浮かんだ作品

透明人間の告白
3.6

著者:H・F・セイント
翻訳:高見浩
出版:河出書房新社
ページ数:425

読書エフスキー
H・F・セイントの『透明人間の告白』ですか。
書生
村上春樹を推す声が多かったですが、僕はこれを読んでいる時にレビュー内でもあげたH・F・セイントの『透明人間の告白』が思い浮かびました。もし村上春樹をあげるなら『村上春樹 雑文集』という本にはポール・オースターについて村上春樹が言及している部分がありますので、そちらを。

レビューまとめ


ども。読書エフスキー3世の中の人、野口明人です。

いやー、ぶっちゃけこの小説には驚いた。久しぶりに大ヒットだった。逆転満塁ホームランだった。僕の好みど真ん中の作品だった。うん。僕はこういう作品が大好きなのです。

絶望や孤独を否定せず、だけどもうやうやしく肯定もしない。受け止め、傷つき、感情を爆発させ、何か発見してちょっとだけ前に進む。そういう主人公がどうにもこうにも自分の生き方にすごく合っているような気がしました。

そしてポール・オースターを初めて読みましたが、この人の言葉のチョイス、天才だわぁ〜。お笑いで言えば、南海キャンディーズの山ちゃんやブラックマヨネーズの小杉さん、はたまた天津の向さんの言葉の選び方に通じるものがある。

自分じゃ思いつかないけれども、言われてみればすげーよく分かる!!っていう感じの例え話の出し方。パッと映像が頭の中に浮かんできて、ふふふっと笑ってしまう言葉回し。本当にすごい。

それにしても、この小説の作品のところどころに月が出てくるのだけれど、タイトルになっているムーン・パレスなんて単なる中華料理店の看板だからね。それをタイトルに持ってくるセンスね。

こうイメージをカチッと決めずにあーゆー風にも取れるし、こーゆー風にも取れるっていう無限のイメージを膨らませてくれる作品でした。何度も読みたい作品だと思います。これはいい本に出逢えた。

孤独を感じやすいあなたにおすすめ。

ではでは、そんな感じで、『ムーン・パレス』でした。

あ、最後にもう一度言及しておきますが、この本の翻訳、なんでこんなに読みやすいの!?ってぐらい名訳だと思います。柴田元幸さんは東京大学出身のアメリカ文学研究者。ムーン・パレスでBABEL国際翻訳大賞日本翻訳大賞を受賞したそうです。流石や〜。

ここまでページを閉じずに読んで頂いて本当にありがとうございます

最後にこの本の点数は…


ムーン・パレス - 感想・書評

ムーン・パレス
4.3

著者:ポール・オースター
翻訳:柴田元幸
出版:新潮社
ページ数:532

ムーン・パレス ¥ 907
  • 読みやすさ - 92%
    92%
  • 為になる - 89%
    89%
  • 何度も読みたい - 97%
    97%
  • 面白さ - 96%
    96%
  • 心揺さぶる - 93%
    93%
93%

読書感想文

今までなぜポール・オースターという作家を知らなかったのだろうと後悔させる程素晴らしい作品でした。これは声を大にして人に薦めたい小説です。久しぶりにそんな風に思える本に出逢えました。これを大学生の時に読んでいたならば僕の人生もちょっとは変わっていたかもしれない…。もしあなたが時々孤独に襲われる事があるのなら、この小説を手にとってみてくださいませ。

Sending
User Review
87.43% (7 votes)
いいね!をいただけると歓喜します