三月は深き紅の淵をという小説。手にとって最初に思ったのは、今までの恩田陸の小説のタイトルの付け方の中で一番アクロバティックだな、と。文字でタイトルをじっと見つめ、目を閉じて口に出して言ってみる。
するとどうにも「サンガツハフカキクレナイノフチヲ」というフレーズが思い出せない。「三月は」と「紅」という言葉は印象に残るのだけれど、どうにも連続して『三月は深き紅の淵を』というフレーズになってくれないのです。
『六番目の小夜子』『球形の季節』『不安な童話』の名詞で終わる作品とはタイトルの付け方が変わったように、この小説はどうやらその中身も今までの恩田陸の書き方とはガラリと変えた書き方をしているようです。というのもこの小説の発表年が1997年。それまで不動産会社で働きながら小説家を続けていた恩田陸が、小説家一本で生活し始めたのも1997年なのです。
ここから恩田陸の恩田陸らしさがドバーッと凝縮して作品になっていくのかとワクワクして読み進めていったのですが、すべてを読み終えた時、僕はこの小説をどのようにレビューしていけばいいのか、頭を悩ませてしまいました。今までで一番、“恩田陸”が顔を出している作品だと思うのですが。
これからこの小説を読もうとしているあなたに、この小説をどうやって説明すればいいのか。どうすれば。一体…。三月は深き紅の淵を…。紅の淵をどうしたんだろう。淵がどうなるんだろう。モヤモヤは止まらない…。
ただひとつだけ言えるのは、きっとこの本を読み終えたあなたは、『三月は深き紅の淵を』という架空の小説が読みたくなっているのは間違いないはず…。
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小説『三月は深き紅の淵を』 – 恩田陸・あらすじ
読書エフスキー3世 -三月は深き紅の淵を篇-
あらすじ
書生は困っていた。「図書館王にオレはなる!!」と仕事中に寝言を言ったせいで、独り、無料読書案内所の管理を任されてしまったのだ。すべての本を読むには彼の人生はあまりに短すぎた。『三月は深き紅の淵を』のおすすめや解説をお願いされ、あたふたする書生。そんな彼の元に22世紀からやってきたという文豪型レビューロボ・読書エフスキー3世が現れたのだが…
三月は深き紅の淵を -内容紹介-
教えられた家は、坂の上にあった。
引用:『三月は深き紅の淵を』恩田陸著(講談社)
三月は深き紅の淵を -解説-
鮫島巧一は趣味が読書という理由で、会社の会長の別宅に二泊三日の招待を受けた。彼を待ち受けていた好事家たちから聞かされたのは、その屋敷内にあるはずだが、十年以上探しても見つからない稀覯本『三月は深き紅の淵を』の話。たった一人にたった一晩だけ貸すことが許された本をめぐる珠玉のミステリー。
- 『チョコレート工場の秘密』ロアルド・ダール
- 『願い』ロアルド・ダール
- 『小公子』フランシス・ホジソン・バーネット
- 『山荘綺談』シャーリイ・ジャクスン
- 『地獄の家』リチャード・マシスン
- 『ねじの回転』ヘンリー・ジェイムズ
- 『女王館の秘密』ビクトリア・ホルト
- 『レベッカ』ダフネ・デュ・モーリア
- 『アッシャー家の崩壊』エドガー・アラン ポー
- 『御馳走帖』內田百閒
- 『市民ケーン』オーソン・ウェルズ
- 『シャイニング』ジャック・ニコルソン
- 『世界シンボル辞典』J・C・クーパー
- 『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー
- 『稲垣足穂全集』稲垣足穂
- 『長くつ下のピッピ』アストリッド・リンドグレーン
- 『防衛白書』防衛省
- 『森茉莉全集』森茉莉
- 『地獄の黙示録』フランシス・F・コッポラ
- 『災厄の町』エラリー・クイーン
- 『華氏451度』レイ・ブラッドベリ
- 『嵐が丘』エミリー・ブロンテ
- 『僧正殺人事件』ヴァン・ダイン
- 『黒死館殺人事件』小栗虫太郎
- 『まっ白な嘘』フレドリック・ブラウン
- 『終りなき夜に生れつく』アガサ ・クリスティー
- 『スリーピング・マーダー』アガサ ・クリスティー
- 『ねじれた家』アガサ ・クリスティー
- 『親指のうずき』アガサ ・クリスティー
- 『風と共に去りぬ』マーガレット・ミッチェル
- 『ランボオ詩集』アルチュール・ランボー
- 『気狂いピエロ』ジャン=リュック・ゴダール
- 『聖アリス帝国』美内すずえ
- 『アレキサンドリア・カルテット』ロレンス・ダレル
- 『りんご園のある土地』ウイリアム・メイン
- 『砂』ウイリアム・メイン
- 『絵のない絵本』アンデルセン
- 『警視の隣人』デボラ・クロンビー
- 『非現実の王国で』ヘンリー・ダーガー
- 『死神たちの白い夜』山田ミネコ
- 『ジェイコブズ・ラダー』エイドリアン・ライン
- 『戦時生活』ルーシャス・シェパード
- 『ヘルガ』アンドリュー・ワイエス
- 『あなたに似た人』ロアルド・ダール
- 『おばけ桃の冒険』ロアルド・ダール
- 『秘密の花園』フランシス・ホジソン・バーネット
- 『エルマーのぼうけん』ルース・スタイルス・ガネット
- 『時をかける少女』筒井康隆
- 『大脱走』ジョン・スタージェス
- 『雨の午後の降霊術』マーク・マクシェーン
- 『ユリシーズ』ジェイムズ・ジョイス
- 『雨降りだからミステリーでも勉強しよう』植草甚一
- 『コレクター』ジョン・ファウルズ
批評を終えて
いつもより少しだけ自信を持って『三月は深き紅の淵を』の読書案内をしている書生。彼のポケットには「読書エフスキーより」と書かれたカセットテープが入っていたのでした。果たして文豪型レビューロボ読書エフスキー3世は本当にいたのか。そもそも未来のロボが、なぜカセットテープというレトロなものを…。
名言や気に入った表現の引用
参加してくれたまえ、か。くれたまえ、なんて言葉しゃべる奴がいるんだな、と巧一は新鮮な驚きを感じた。ひょっとして、こいつはTVの企業ドラマにかぶれているんではなかろうか。山崎努が出てくる、社命と自分の倫理観の板挟みになる男のドラマ。
会長曰く、人間には二種類ある。本を読む人間と読まない人間
自分が何も知らないことを知っている人間は少ないからね。いい心掛けだよ。
人生は賭けである。これは本当だ、年だけは食ってきた我々が言うんだから間違いはないね。多少の差はあれ、それなりのリスクをくぐってきたんだから。人間は一瞬一瞬を賭けながら生きている。瞬間瞬間を選びとっているのだと言い換えてもよい。
普通の小説。謎めいた四部作の小説なんだ。推理小説と言えないこともない。ただ、なんというか奇妙な印象を受ける小説でね。種類の違う素材のかけらをモザイクにしたような小説。びしっと隙がなくて文句なしの傑作、っていうのじゃないんだ。なんだこれは、と読んでいるうちにずるずると引きずり込まれて、しばらくたっても小説のかけらが頭のどこかに残っているような小説なんだ
『ぴあ』が出てきたあたりから一気に文化の画一化が進んだわよ。あらゆる情報が提供されるようになって、手軽にいろんなものを見られるようになったのは確かだけど。昔はほんとに好きなものを求めていくことによって情報は得られたのに、今はアングラというものがなくなってしまった。みんな普通の好奇心だけの人が土足でやってきて、なんでも大衆消費のレベルにひきずり降ろしてしまっては、ひきずり降ろしたまんまですぐにさようなら。日本人の『民主主義』の一番履き違えてるところよ。昔は分相応って言葉があったけど、今や『俺たちは平等だ。そんないいものがあるんなら俺にも見せろ、俺にも食わせろ、俺にも買わせろ』でしょ。理解できる目も舌も背景もないくせにさ。みっともないったらありゃしない
美味いもん食って初めてこういう美味いもんがあるんだってことが分かるんであってさ。そういう、求めよさらば開かれんみたいなことやってたから伝統芸能が滅びつつあるわけでしょ?だから、とりあえず機会はいろいろ与えられた方が健全なんじゃない?何にせよ物事を究めるってことは大変だから、機会はあってもどうでもいい奴はとっとと自然淘汰されちゃうし。
あたしは昭和三十年代以降に生まれた女の書く『ぼくは』で始まる一人称の小説が大っ嫌いなのよ。ほとんど憎んでいるといっても過言じゃないわね。みんな同じタイプの主人公でさ。『ちぇっ、だから女の子ってやつはわからないんだ』なんて文があったりするの。時々まちがって読んじゃったりするんだけどね。あわわ、また『ぼくは』かって。くわばらくわばらって感じよ
凝った造りで、おのおの異なったいわくのある四つの家が建てられている。ただその事実だけで、楽しめるでしょう。我々はそこから派生する、この先語られるべき物語を予感することができるんです。我々は合理的な解決や、あっと驚くトリックを待っているわけじゃない。そりゃ、そういったものがあるにこしたことはないけどね。でも、それより大事なのは、わくわくするような謎が横たわり、それに呼応する大きな答を予感させる物語が現れることなんです。
熱いご飯を口に運びながら、巧一はふつふつとした衝動が胸に湧いてくるのを感じた。読んでみたい、その本を。時間を忘れて、むさぼるように本を読む幸福。そういう喜びを知ってはいるけれど、最近ではなかなか体験できない。読書経験を積めば積むほど、本に対してすれてくるし、感動も鈍ってくる。しかし、目の前にいる、明らかに自分よりも読書家らしい人々がそこまで夢中になれる、読み出したらやめられない本というのは、どういう本なのだろうか?
夜、暖かい家の中で、これから面白い話を聞くのを待っている。恐らく、大昔から世界中で、なされてきた行為。やはり、人間というのはフィクションを必要とする動物なんだな。まさに、その一点だけが人間と他の獣を隔てるものなのかもしれない。
面白い本が読まれる、注目されるというのは幻想ですよ。私たちがめちゃくちゃ面白いと思っている本だって、みんなに読まれるとは限らない。面白いのに埋もれている本はいくらでもある。ある作品がスタンダードになるかどうかというのは運不運もあるし、タイミングというのもある。私が天国まで持って行きたい、私の後に生まれる人間にどうしても読ませたいという作品が後世に残るわけじゃない。
我々は自分がちょっとばかし本を読んでいると自惚れているかもしれないが、これだってとんでもない幻想です。人間が一生に読める本は微々たるものだし、そのことは本屋に行けばよーく判るでしょう。私はこんなに読めない本があるのか、といつも本屋に行く度に絶望する。
作品を読むという次元で見れば、作者の性別なんて関係ないはずなのに、やっぱり本を読む時、どこかで作者の性を気にしている。意識されていないようでいて、実は作者の性別というのは重大な問題なのよね
ふと思い付いて部屋の中を見渡すと、白熊のようなその犬はキッチンの隅で長々と寝そべって、目を閉じている。人間どもが目の色を変えて論じる昔の本の話なぞ聞き飽きた、とでも言うように。
その昔は、人間がマクロな視点というものを獲得するにはそれなりの努力というものが必要でした。命を懸けて大航海をするか、宗教や、哲学といったものから学んでいくしかなかった。しかし、現在はいとも簡単にマクロな視点が手に入る。航空地図でも、青い地球の写真でも。みんなが神の視点を手に入れたわけです。そのことによって広い世界を獲得した人がいるかもしれないが、実際にはそれほどみんな幸せにはならなかった。自分の存在の卑小さだけが身に迫り、他人との差別化に血道を上げることになる。ゆえに、他人の人生がジェットコースターのように展開され、自分の掌に収まるフィクションが好まれるということになる。
全く、ダイイング・メッセージと言ったら一度きりに決まってるのに、何が『一度やってみたかった』だ。本当に根性の悪い奴だ
よそからさらってきた子供の肉を食べていた女に、代わりにこれを食えと言って柘榴を差し出す釈迦というものに、巧一はどこか割り切れないものを感じ、つかみどころのない恐怖を感じた。そういう女が子供を守る神様になってしまうところにも、信仰というものの不思議さを覚えた。
誰にも開けられない瓶の蓋が、自分ならば開けられるかもしれないと誰でも一度は考えるものである。
日本の社会自体、本読む人間には冷たいんですよ。本読むのって孤独な行為だし、時間もかかるでしょ。日本の社会は忙しいし、つきあいもあるし、まともに仕事してるサラリーマンがゆっくり本読む時間なんてほとんどないじゃないですか。本なんか読ませたくないんだな、って気がする。例えば僕が上司に、飲み会を断るとしますよね。『今日は早く帰って、こないだ並んで買ったTVゲームやりたいんです』って断る。上司は苦笑するでしょうけど、『しょうがない奴だな。あいつオタクなんですよ』で済ますでしょう。でも、『今日は早く帰って本読みたいんです』って断ったとしたらどうです?上司の心中はきっと穏やかじゃないだろうし、きっと僕に対して反感を持つでしょうね。みんなTVゲームは画一的で、本人の思考が入る余地がないこと知ってるから安心できる。でも、本読む奴というのは、みんなと違うこと考えてる、一人で違うことやってる人間だと見なされる。上司から見れば、『あいつ、俺の知らないところで俺に黙って何考えてるんだろう』って風になるんでしょうね。
日本人て、人間関係をわずらわしがるくせに、孤独にはものすごく弱いじゃないですか。
今、みんなに本を読ませるためには本を禁止するのが一番なんじゃない?
朱音はもともと好き嫌いのはっきりした編集者だが、嫌いな作家を挙げている時が一番生き生きしているように見える。悪口を言わせると天下一品という人間がたまにいるが、朱音はどうやらその人種であるらしい。
電車の中や飛行機の中で、移動中に原稿を書く作家は少なくない。たくさんの人々が同じ場所で、同時進行で勝手なことをしている。その大勢の中の一人である、という気安さが、原稿を書くことも大したことではないという錯覚を起こさせるのだろう。人にもよるが、『自分は今から自分の小説を書き始める』というプレッシャーにはすさまじいものがあるらしい。
名作や傑作って、インパクトはあるし感激するけど、意外にすこんと抜ける。うまく出来てる小説ってそうです。長く心のどこかにひっかかってる小説って、そういう小説じゃない。印象に残る作品っていうのは、どこか稚拙で完成度が低いけど、アクの強いオリジナリティのあるものの方でしょう。
いいものを読むことは書くことよ。うんといい小説を読むとね、行間の奥の方に、自分がいつか書くはずのもう一つの小説が見えるような気がすることってない?それが見えると、あたし、ああ、あたしも読みながら書いてるんだなあって思う。逆に、そういう小説が透けて見える小説が、あたしにとってはいい小説なのよね
今でも人間が小説を書いてることが信じられない時があるもんね。どこかに小説のなる木かなんかがあって、みんなそこからむしりとってきてるんじゃないかって思うよ。
鏡の中に人の姿が見えたら、相手からも必ず自分の姿が見えているのだ。 何かの一節だ。アガサ・クリスティーだっただろうか?最初にこのフレーズを読んだ時、理由は分からないが背筋が寒くなったのを覚えている。
今、アガサ・クリスティーが生きていたら、何を書いていただろう、とふと思った。あまりにもメジャーで、文章が平易過ぎると最近あまり話題にもならないが、隆子は、彼女にゴシック・ホラーを書かせたらすごいのではないかと思っていた。テクニックといいイメージ喚起力といい、現代のいわゆるホラー作家はすさまじい力量を持っているが、正直なところ、隆子が今まで本当に恐怖を覚えた小説は、アガサ・クリスティーの「終りなき夜に生れつく」や「スリーピング・マーダー」なのだった。当代の男性作家ならば、技巧を尽くし緻密な計算をした上で読者を追い込むように細部を書き込み、力業でねじふせようとするだろう。クリスティーの恐怖はそうではない。だいたい、クリスティーという人は心理描写も風景描写もほとんどしない人だ。「女性的な感覚」を売りにする訳でもないし、センテンスも短く簡単。なのに、心の底からぞっとさせる。
推理小説というのはその性質上、必ず読者の理解と意識をどこかで仮想しながら書かなければならない。そういう制約があるからこそ面白いんだけどね。推理小説ほど第三者の目を気にしながら書く、『外に向いた』小説はないわけよ。
こぢんまりとした駅だった。もっと古めかしい駅を想像していたのに、意外と飾り気のない、近所のおばさんのような実用的な駅だった。
人間が住んでいないと、こんなにあっというまにぼろぼろになっちゃうのね。人間の営みなんて、はかないものね。なんだっけ、どっかの考古学者が言ってたんだけど、人類の歴史は掃除の歴史なんだって。ちょっとでもサボると、文明なんてすぐに埃に埋もれてしまう。埃でなくたって、植物がどんどん繁殖して、たちまちジャングルに飲み込まれてしまう。雨や風だって、容赦なく文明を削り取っていく。密閉されたマンションだって、一週間掃除しないだけで、埃だらけになっちゃうものね。十年、百年と放っておけば、銀座だって砂と土に覆い尽くされるのよ。人類はひたすら必死に掃除をして生き延びてきたんですって。実感するわね、こういうの見ると
美佐緒は、時々こういう自嘲をすることがあった。その瞬間だけ彼女はずぶりと沈む。慣れないうちは、それにつられて一緒に沈みそうになったものだが、詠子は取り合わずに軽く扱うコツを覚えた。美佐緒の自嘲に気付かなかったふりをして、浮かんだままでいるのである。すると、美佐緒はすぐに自力でふわりとこちらに戻ってくる。
みんな、隠してるつもりでもバレてるのよね
小説のタイトルは難しい。一説には、小説が六割、タイトルが四割で小説全体を決定するとも言われている。
小説のタイトルには、使えそうで使えないものがある。短編では使えても、長編では今更使えない、といったものもある。今更使えないタイトル、というのでいつも真っ先に思い出すのは「旅路の果て」というタイトルだ。映画の邦題や欧米の短編小説でさんざんお目にかかったものだが、実に陳腐でそれでいて代わりが思い付かない、つけいる隙のないタイトルである。
彼女は飛行機に乗ったことがない。飛行機というのは、人間の叡智と神の領域との狭間にあるのではないだろうか。なんとなく、人間の領域を一歩はみだしているところがあるような気がして、乗るのが恐ろしいのだ。
一般的に仕事に熱中している女性は美しいが、小説を書いている女はブスだと思う。雑誌の締切り前の夜中に鏡で自分の顔を見るといつもギョッとする。
子供に話をしてやるというのは、なかなかいい手段だ。敵の注意をそらさずに引っ張り続けるには、相当面白いストーリーであることを要求されるだろう。児童文学は、子供を産んだ時の修行にとっておこう。
なぜ人間は「よくできた話」に感銘を受けるのだろう。話の内容に感動するのは分かる。親子の情愛、生と死の葛藤、無償の愛。自分を主人公に置き換えて感情移入をする。それは分かる。しかし、「よくできた話」に対する感動はこれとは少し違うように思えるのだ。その感動は、収まるべきところに全てが収まったという快感である。なぜ快感なのだろう。そして、「よくできた話」を聞き終わると、その話をずっと昔から知っていたような錯覚を覚えるのはなぜだろう。 恐らく、人類には何種類もの物語がインプットされているのだろう。インプットされた物語と一致すると、ビンゴ(!)状態となる。なぜ?フィクションを求めるのは、人間の第四の欲望かもしれない。なんのために?たぶん、想像力という他の動物にはない才能のためだろう。フィクションを求めることで、我々は他の動物たちと袂を分かったのだ。
彼女は唖然としている。 たどりつくまでのロケーションの神話的な雰囲気に比べ、出雲大社の中は驚くほど現実的な場所だった。まるで、東京のオフィス街を歩いているかのようなリアリティである。 しかし、よく考えれば当然のことだ。これだけの神話的空間を維持していくためには、相当な経営手腕を必要とされる。集金能力、統率能力、管理能力、権力に駆け引き。そこに信仰というものが加わったとしても、人手と金がかかることに変わりはあるまい。それは現代企業そのものだ。
私は子供の頃からメリー・ゴー・ラウンドが嫌いだった。子供心にも、はりぼての馬に乗ってくるくる同じところを回っているだけという行為がひどく屈辱的に思えたのである。いったい何が面白いというのだろう?何が楽しいというのだろう?あれに乗って、円の外で待っている家族を見る時の孤独。あの孤独はなんだったのだろう。家族は慈愛に満ちた瞳で遠くから私を見守っている。おまえは一人なんだよ、と。おまえを愛しているけれど、おまえは一人なんだよ、と。回転木馬に一人きりで乗っている子供たちは痛いほど孤独なのに、なぜみんな微笑んでいるのだろう。子供たちは、自分が家族に向かって微笑んでみせなければいけないことを本能的に知っている。自分が孤独に気付き始め、それがこれからの長い人生の伴侶であると気付いたことをみんなに示すために。
三月は深き紅の淵をを読みながら浮かんだ作品
レビューまとめ
ども。読書エフスキー3世の中の人、野口明人です。
とにかく圧倒されるほどの恩田陸の“本”に対する熱い想いがぎっしり詰まった一冊って感じでした。今までで一番アクが強いんじゃないだろうか。きっとこれは好き嫌いがクッキリとわかれそうな作品。
何でも解決させたくなるのはミステリー・ファンの性である。
って書いてあるんだけど、やっぱりこの作品も今まで通り、モヤモヤで終わります。これはもう恩田陸は意図的に解決させないで終わらせているんでしょうね。
4つの編ではなく、4つの章立てをして書いたのもきっと、なんでも解決させたくファンの思考を逆手に取った書き方なのかもしれません。これはどうしたってこの4つが最後には繋がるって考えてしまいそうな書き方。
最後まで読んで、なんだよ!繋がらねーのかよ!とキレてしまえば、この作品は嫌いな作品になるだろうし、うーん。なんか直接繋がってはないけど、なんか所々リンクしていて無関係とは言い切れないし、フワフワしてんなぁ〜。相変わらず恩田陸だなぁ〜。と思えば好きな作品になるでしょう。
とりあえず僕は続けて恩田陸を読んでいくつもりなので、この作品を検索するとちらほら見えた『麦の海に沈む果実』や『黄昏の百合の骨』とのリンクが楽しみです。伊坂幸太郎の黒澤のように、違う作品に同じ登場人物が出て来るのは結構好きです。
あぁ。読書はいいね。リリンの生み出した文化の極みだよ。
読む本に困ったら、とりあえずこの本を読んでおけば、この本の次に読む本は見つかるでしょう。それだけの沢山の作品が紹介されているので、これはある種小説の形をした読書案内と言ってもいいような作品です。
ではでは、そんな感じで、『三月は深き紅の淵を』でした。
ここまでページを閉じずに読んで頂いて本当にありがとうございます!
最後にこの本の点数は…
三月は深き紅の淵を - 感想・書評
三月は深き紅の淵を ¥ 720
-
読みやすさ - 62%
62%
-
為になる - 78%
78%
-
何度も読みたい - 77%
77%
-
面白さ - 82%
82%
-
心揺さぶる - 71%
71%
読書感想文
一つの同じ本を登場させた4つの物語。個人的には第3章が好きなのだが、一番『三月は深き紅の淵を』の存在が稀薄な章でもあるので好きと言っていいものか。4章あるうちのどれかはきっとハマる姿をしているハズ。