球形の季節 - 書籍情報- 著者:恩田陸
- 出版社:新潮社
- 作品刊行日:1994/04
- 出版年月日:1999/02/01
- ページ数:341
- ISBN-10:4101234124
BOOK REVIEWS
球形の季節は恩田陸の2作目の作品。僕はこの二作目の作品というのを読むのが大好きです。…というのも、デビュー作は何かしらの確証を持ってデビューするわけで、高評価を得やすいですが、次の作品となるとどうしてもデビュー作と比較されやすい。
同じような作品を連発した方がいいのか、それとも全く別の物を創り上げた方がいいのか。その作家の苦悩が一番わかりやすいのが二番目の作品だと思うからです。
差別化するために様々な工夫してるなぁ〜、ここは前作にも見えた雰囲気だからこれがこの作家の個性なんだなぁ〜と考えながら読むのが、もうたまりません。んで、僕のクセとして気に入った作家を見つけるととにかく発表順で全作品を読んでみたくなる。
ということで今回は『球形の季節』を手に取ったわけです。
そんなわけで食わず嫌いの作家だった恩田陸の前作『六番目の小夜子』に驚かされた僕は、『球形の季節』が同じ学園モノという情報の元、同じような作品を連発する方を選んできたかー!と、格別に楽しみにして読み始めたわけですが、僕の予想は裏切られることになるのです…。
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小説『球形の季節』 – 恩田陸・あらすじ
東北の田舎町、谷津。ここは出戻り率が非常に高い町として知られる。一度は都会に出て行くが、戻って来てしまう不思議な町。しかしその事実は若者達にどこへも進めない閉塞感を与える。そんな中、四つ並びの高校で奇妙な噂が広がって行く。噂の発端はどこにあるのか?地歴研に参加する高校生達はアンケートを取り調査を始めるが、やがて噂通りに一人の女生徒が姿を消してしまう。退屈な日常をぶち壊す学園モダンホラー。
読書エフスキー3世 -球形の季節篇-
前回までの読書エフスキーは
あらすじ
書生は困っていた。「このロボ、頭がファンタジー!」と仕事中に寝言を言ったせいで、独り、無料読書案内所の管理を任されてしまったのだ。すべての本を読むには彼の人生はあまりに短すぎた。読んでいない本のおすすめや解説をお願いされ、あたふたする書生。そんな彼の元に22世紀からやってきたという文豪型レビューロボ・読書エフスキー3世が現れたのだが…
球形の季節 -内容紹介-
大変です!先生!恩田陸の『球形の季節』の事を聞かれてしまいました!『球形の季節』とは一言で表すとどのような本なのでしょうか?
“故郷に対する閉塞感と噂をテーマにしたミステリー”デスナ。
…と、言いますと?正直な所『球形の季節』は面白い本なのでしょうか?
坂井みのりがその奇妙な噂を聞いたのは、五月一日の水曜日の朝のことだった。
引用:『球形の季節』恩田陸著(新潮社)
コンナ一文カラ始マル“恩田陸”ノ1994年の長編小説デス。読メバワカリマス。
えーっと、それでは困るのです。読もうかどうか迷っているみたいですので。ちょっとだけでも先生なりのご意見を聞かせていただきたいのですが。
読む前にレビューを読むと変な先入観が生マレテシマイマスノデ…
ええい、それは百も承知の上!先生、失礼!(ポチッと)
ゴゴゴゴゴ…悪霊モードニ切リ替ワリマス!
うぉおおお!先生の読書記録が頭に入ってくるぅぅー!!
球形の季節 -解説-
球形の季節。タイトルを読み、なんとなくノスタルジーな気持ちになるのはきっと文庫本の表紙も手助けしての事でしょう。
あー、オレンジ色ってなんとなく郷愁漂うものがありますね。
が!冷静に考えてみると『球形の季節』と聞いただけでは全くどんな物語なのか想像が出来ないですよね。
球形という言葉があまり聞き慣れない言葉ですよね。意味はなんとなくわかりますが。
前作『六番目の小夜子』はタイトルからなんとなくホラーなんだろうなぁというのは伝わってきました。悪魔数字の「6」。そして「小夜子」という漢字からホラーだろうなと。
確かにそうでした。内容を想像しやすいタイトルでした。
しかし、実際どうでしょう。『六番目の小夜子』はホラーだったのか?ミステリーだったのか?ファンタジーだったのか?学園ラブコメだったのか?読んだ後にもジャンルを明確に説明出来なかった作品は初めてで、恩田陸とはそういう作家なのだと知りました。
うむ。タイトルから想像した内容と実際の物語とのズレがありましたよね。いい意味で。
今回はハッキリ言いましょう。ミステリーです!ミステリーを読んでいるのだという自覚がありました。…しかし、恩田陸が書くミステリーはただのミステリーには終わりません。
前回同様、登場人物が高校生という共通点から、学園モノかと思いきや、主役は「町」なのです!
「町」が主役の小説なんて聞いた事ありますか?いやいや、もちろん「町」はしゃべりません。だから登場人物である高校生が代わりに話を進めていくわけですが。
…ん?それはつまり、その高校生が主役になるのでは?
前作はきっちりとした主役がいました。謎を究明していく探偵役が。でも今回、主役は誰?と聞かれたらきっと君は誰だか答えられないでしょう。なぜなら登場人物多すぎるから!
えーっと、そういうのって群像劇形式っていうのではなかったでしたっけ?グランドホテル形式とも言いますが。
もちろんそうです。そういう形式の小説はあります。様々な人の目線から描かれていって、最後にガっと収束する系のやつですね。
そうですそうです。一見関係ないように見えて、最後には「こんな所で繋がってたのか!!」とビックリするのが僕は大好きですね。
でもそういう群像劇はキャラクターに焦点が当てられるでしょう?一人一人の魅力的な過去が説明され、それと同時に一本の太い筋を並行して物語が進んでいくっていう。
はい。最後にガッとまとまった時の爽快感がクセになり、一時期、群像劇系の小説ばかり読み漁っていました。
それならばわかるはずです。これは登場人物の紹介が浅い!こんなやつ要らんかっただろーと思えるやつまで登場してきます。でもそれがいい!なぜなら主役は「町」だからです!
『球形の季節』はとにかく設定重視です。『六番目の小夜子』よりも最初の方に少しだけ読みづらいなと感じるのは、登場人物が多く、あだ名や苗字、名前が混雑しているのもあると思いますが、なによりもとにかく重要である舞台、言うならばこの小説の箱である谷津という町の説明が延々と続くからです。
谷津。東北にある、人口が十五万に届くか届かないかの盆地都市、I市の中心部にあるのが谷津。中心産業は農業と林業。デパートや繁華街も小さな官庁街とオフィス街にしかない。外出すればだいたい知っている人に会う。外から見れば何の特徴も見いだせそうもない典型的な地方都市。
確かにそういう設定説明の文章って、読んでいてちょっと退屈してしまうというか、読書スピードが上がってこない所はありますね。
そんな谷津ですが、実はひとつだけ面白い事実があります。帰郷率が90%を超えるのです。
普通、田舎町と言うと若者が都会に憧れ出ていってしまって、どんどん過疎化が進み廃村になってしまうというのが多いのです。しかし、この谷津は一度は出ていくものの90%以上が帰ってくるのです。
独特の懐かしさみたいなのがあるんですかね。帰りたくなる何かが。
その理由を聞いてみても、そこに住む人達にとって、それが“当然”なのだそうで。特別な使命感などはなく、戻ってきては実家を継ぐのが当たり前の町。それが谷津です。
なんか閉塞感漂いますね。出ていきたいのに、不思議なチカラによって戻らされているっていうか。
そんな特殊な町、谷津の高校生を物語の牽引役にしたのが『球形の季節』。なぜ高校生なのか?それは「一度は出ていくものの」というところがキーになるからだと思います。
あー。人生の最初の岐路に立たされるのが高校生ですもんね。大学は地元に行くのか?都会の大学に行くのか?外に出て働きに行くのか?みたいな将来について初めて真剣に考えるみたいな。
そういうのを考え始める時期の高校生の葛藤は『町』を主人公にしている『球形の季節』にはもってこいなのだと思います。
高校生の葛藤ってありますよね。まだまだ自分の可能性に満ちている年頃ですし、自分はこのままでいいのか?もっと何かやれるのではないか?みたいな。
自分の人生は一生このなんとなく退屈な毎日が続く谷津で終えるのか。本当にそれでいいのか?なんなんだこの閉塞感は。そんなような疑問が最初に湧くのが高校生なんでしょうね。
やっぱり戻ってきて当然っていう常識が一種の閉塞感生み出しますね。自分もその流れに乗らなければならないのか?ってなりますもん。
そしてその退屈な閉塞感はひとつの現象を生み出します。つまらない日常をぶっ壊す為に非日常の出来事を望む願望。それが噂として広がっていくのです。噂の内容は大体まとめると次のようなもの。
五月十七日、一高生のエンドウという人が宇宙人に何かされる。
もちろん噂は徐々に尾びれがついていくもの。宇宙人に殺されるだの、連れ去られるだの、エンドウが実は宇宙人だのマチマチな内容になります。
五月の始めに、この噂を調査しようとアンケートを取りだしたのが、一応この物語の中心グループである地歴研です。「谷津地理歴史文化研究会」で地歴研。
地歴研は谷津にある四つの高校の生徒と、地理の先生から成り立っています。この会に属している男女数名が噂の一番最初を調べようと、噂を誰から聞いたか?的なアンケートを取りはじめます。そのアンケート結果を数珠つなぎで辿っていけば噂の元にイケるじゃん!ってな話なわけですね。
ですが、そう簡単にいかないもので、噂の出処は数ヶ所にバラけてしまったのです。それで、その出処の候補に上がった数名にインタビューをしたりなんだとしている間に五月十七日が来てしまいます。
そして遠藤という女生徒が行方不明に。
マジで起きちゃったよ…。という反応の地歴研の人達。なんとなく興味本位で始めた事だったのに警察沙汰になってしまった。さらに小学生達の間では金平糖をおまじないに使うとかいうブームが起きたり、再び違う噂話が広がったり…。
…ま、そういう感じでつまらない日常のはずがじわじわ非日常になっていく話です。『六番目の小夜子』と『球形の季節』。高校生という同じような状況、伝説と噂のように同じようなジャンルを扱いながら、全く別の姿をした恐怖を描いた印象です。
言われてみれば、似ているジャンルなのに話の広がり方が違いますね。内に内に進むのが小夜子で、外に外に向かうのが球形って感じで。
恩田陸のデビュー作『六番目の小夜子』では、全体を通して“不気味”という雰囲気恐怖が漂っていたのに対し、今回の『球形の季節』はふつふつと人間の持つ“葛藤”が高まっていく感じが強いです。そこに恐怖を覚えます。
文章構成は非常に似ているんですけどね。起承転結の「起」で謎が出てきて、その謎で全部引っ張っていくのかなーと思いきや「承」で謎を明かしてしまう。サヨコは誰なんだというのがすぐにわかるし、谷津の噂はどうなるの?ってのもすぐにわかる。
そして「転」で謎を明かしたのにも関わらず続いていく不思議な出来事。きれいに転じてます。…が、最後の「結」では大ボスの謎を残したまま終わる。読み終わった後のフワフワ。
あー。そのフワフワが恩田陸の特徴なのかもしれないですね。
そのフワフワのおかげで、読み終わったあとにすぐにもう一度読みたくなるんですよね。人によっては「…で!?」となってしまってもおかしくない構成なのに、読んでいる最中が面白かったからまあいいか!これが恩田陸か!と納得出来てしまう力技です。
ページめくりを止めさせないのって、なかなか出来ない事ですよね。まー、僕はどんどん期待度が上がっていって、最後がフワフワだと、…で!?ってなってしまいがちなタイプなんですけど。
読者の感想を調べてみるとですね『球形の季節』の方が若干評価が分かれがちなんでですけどね。それはきっと、ミステリー色が強くなったからだと思うんです。
確かに
評価を見ると結構酷評している人もちらほら見えますね。
『球形の季節』では、最後まで読むとある程度、噂の出処と主犯も明かされているんですよ。つまり、謎解きを『六番目の小夜子』よりもしっかりと書いているのです。だからこそ、最後の終わり方が「…で!?どうなるの!最後!」ってのが大きくなります。
それとミステリーにローファンタジーを取り入れたのも好き嫌いが分かれるひとつの要素でしょう。ファンタジーと聞いた時、人によってその捉え方が二つに分かれますから。
魔法が平然と存在する世界だけがファンタジーだと言うものと、超常現象が少しだけ現れるものもファンタジーだと言うもの。
なるほど。僕のファンタジーのイメージは前者ですね。
登場人物全員がメラゾーマを打てればいいけど、一人だけメラゾーマ打てるなんてファンタジーじゃなくてチートだろと。ミステリーの世界にそれを持って来るとなると更に生理的に受け付けない人は受け付けなくなる。
うーむ…。一種のズルですね。説明出来ないものはファンタジーにしてしまえ!ってなっちゃうじゃないですか。
『六番目の小夜子』の方では誰もが一度は想像したことがあるような、でも実際はないような学校での出来事を扱った。花子さんの話を聞いた事あるけど、花子さんって見たことないよな的な。
でも『球形の季節』には、霊能力を持つ人が出てくるし、別の世界にいける人も出てきます。よくありそうな地方都市の話を扱っているのに、絶対に有り得ないと言い切る人が多そうな現象を、本当にあるように取り扱った。花子さん登場しちゃったよ的な。
そしてミステリーのキーの部分がその超常現象に持っていったから、こんなのミステリーじゃないよ!っていう人が出てきてしまうのかなぁと。
あ。そういえば、そうでした。ミステリーなんですよね。この小説。ファンタジーの導入としては面白そうですけどね。霊能力者とか超常現象とか。これから何か特別な世界に入っていく感じで。
私としてはそこに『六番目の小夜子』との差別化を図った恩田陸という作家の工夫が見えて面白いと感じましたが。町を主役にするというのも。
同じような作品が二つ続くのも、まぁ、好きな人は好きでしょうけど、やっぱり違うもの読みたいですもんね。
だからですね『球形の季節』は、もう少しだけ長い作品だったなら、もうちょっと評価が上がった気もするんですよ。
あー。同じような長さで同じようなジャンルを扱って、別の格好をさせるためにラストを捻じ曲げすぎてしまったような?
まー、読者はなんとでも言えるんですけどね。それが一番むずかしいことなんでしょうけどね。
人に認められた作品を出すと、どうしてもその殻を破れなくなりますもんね。
そうですそうです。そして破ったとしても前作のファンが認めない物を生み出しちゃったみたいなものが多くなります。
映画でもありますよね。1は面白かったけど2は劣化したとか2は期待してない方にぶっ飛んじゃったよ!みたいな。
しかし、恩田陸は一見コピーのような舞台を用意しました。高校生モノで伝説や噂のような伝承系。そして文章構成も似てる。でも読んでみると全然違う。こっち好きな人はこっち読めばいいし、あっちが好きな人はあっち読めばいいじゃん。私はこんなに幅広いぜと。マクロでもミクロでも違い出せるんだぜと。
別物を書くことは比較的簡単に出来るものです。全く別の舞台で全く別のジャンルを書けばいいわけですから。しかし今回のように似ているのに全然違う、なのに読んでみるとページめくりが止まらないという作品はそう簡単に書けるものではありません。
そんな感じで、今も売れている恩田陸の理由を見い出せそうな二つの作品でした。
この作家が高校生モノじゃない作品を書いたらどうなるのか?早く読んでみたい!その振り幅を知りたい!そう思わせるには充分過ぎるデビュー作と次作でしたな。
それにしても、先生はメラゾーマとか知ってるんですね。チートという言葉も先生の口から出てくるのが斬新でした。
メドローアも存じております。いつか私も撃てるようになると信じています。
批評を終えて
以上!白痴モードニ移行シマス!コード「ポップ・マトリフ・ポルズンコフ!」
「このロボ、頭がファンタジー!」…って、あれ?僕は一体何を…。
何をじゃないよ!仕事中に居眠りこいて!なにが「ロボ」だよ。お前の方が頭がファンタジーだよ!
え?あれれ?読書エフスキー先生は?
誰だそれ。おいおい。寝ぼけ過ぎだぞ。罰として一人でここの案内やってもらうからな!
えーっ!?一人で!?で、出来ないですよ〜!!
寝てしまったお前の罪を呪いなさい。それじゃよろしく!おつかれ〜
ちょっ、ちょっと待って〜!!…あぁ。行ってしまった。どうしよう。どうかお客さんが来ませんように…。
…あのすいません、球形の季節について聞きたいんですが。
(さ、早速お客さんだーっ!!ん?でも待てよ…)いらっしゃいませー!恩田陸の作品でございますね。おまかせくださいませ!
あとがき
いつもより少しだけ自信を持って『球形の季節』の読書案内をしている書生。彼のポケットには「読書エフスキーより」と書かれたカセットテープが入っていたのでした。果たして文豪型レビューロボ読書エフスキー3世は本当にいたのか。そもそも未来のロボが、なぜカセットテープというレトロなものを…。そして
ダイの大冒険の話題を…。
名言や気に入った表現の引用
「一杯の茶を飲めれば、世界なんか破滅したって、それでいいのさ。by フョードル・ドストエフスキー」という事で、僕の心を震えさせた『球形の季節』の言葉たちです。善悪は別として。
浮わついた華やかさとともに、春はどことなく大きな不安をも運んでくる。
この不安はかつて味わったことがある、とみのりは記憶をたどった。そうだ、初めて、自分以外の人間も皆、自分と同じようにモノを考え、自分と同じようにあらゆる感情を持ち、しかもそれぞれが自分と同じように自分以外の人の考えていることが理解できないのだ、と悟った時のことだ。
雪印の赤と白の缶に入ったコンデンス・ミルクが大好物だった。初めて舐めたときに、世の中にこんなうまいものがあるのかとショックを受けたほどである。缶のふたにプチ、プチと三角形の小さな穴を二つ開け(この、穴を二つ開けないと中身が出てこないというところに彼は限りなく神秘を感じた)、じっと息を止めてそこから小皿にとろとろと甘美な曲線を描いてミルクが流れこむのをうっとりとながめ、それをスプーンですくってゆっくりと舐めるのが至上の悦びであった。
薄紫色の割烹着を着た、少し猫背の、チリチリパーマをかけた小肥りのおばさんはいったい何人町の中を歩いているのだろう? 青いジャージをはき、黒に近い緑色のポロシャツを着て、口をあけて歩いているおじさんは? 我々はおそらく走り過ぎる国道沿いの町ごとに彼らを見ることができる。彼らはどこにでもいるし、ひょっとすると皆同じ人間なのかもしれない。
彼はきれい好きだから洗濯も掃除も大好きだ。自分の髪しか洗ったことのないその辺の女の子よりはよほど生活能力に優れている。
人が文字を書いているところというのは、なぜか魅力を感じるものだ。人が手元に集中して文章を書いていると一瞬無防備になり、ちらりと思いがけないものを見せるような気がする。
自分が他の子と違ってるのはもう解ってるね? 別に悪いことじゃないんだよ、茄子が自分は西瓜じゃないって気がついたからってなんの咎があるってんだね?
「家庭」というのも出口のない、丸い水晶玉だ。中にスッポリ吸い込まれると、二度と出ることができない。しかももっと恐ろしいのは、その中にいるときっと自分は幸福だと思ってしまうだろうということだった。弘範は、家庭というものが自分の秩序の一部になる分には構わないが、自分が家庭という秩序の一部になるのには耐えられそうもなかった。
噂がどうして流行るか考えたことある? それはね、みんなが願ってるからなんだよね。言葉には魂がこもってますからね、例えじゃなくて。セールスマンとかさ、塾とかでもさ、みんな毎日目標を口に出すじゃない? いくらいくら達成するぞー、とかどこどこに合格してみせるぞー、とか、応援とかしてても相手を倒せー、とか叫ぶわけじゃない、それが真実になるように。それが自分のものになるようい。たくさんの人間が噂をすればさ、それは大勢で繰り返し呪文を唱えてるようなものだろ? それはだんだん“真実”に、“本当”になっていくのさ。
テレビの中のきれいなスーツを着たキャスターたちは、「これでいいのでしょうか」「私達は今考えるべき時が来ているのではないでしょうか」といつも同じセリフで報告を終え、「恵まれていることを恥じよ」と叫んでいるように見える。反対に周囲の大人たちは、知らないで済めばそれにこしたことはないから、とあらゆる真実をひた隠しにしているように見える。まだいいのよ。いいの、あんたは考えなくて。一体どうしろっていうのよ、と時々みのりは無性に腹が立つ時がある。
きっといつか、ある日突然、「厳しい現実」や「耐え難い真実」というのが空から降ってくるにちがいない。あれだけ大人たちがひた隠しにするのだから、それはどんなに恐ろしいものなのだろう?
裕美は宗教そのものに関心はあったものの、実際に宗教を信じている人というのがどうも理解できなかった。自分と同じように人とは少々違った感覚を持ち、人とは違うものを見ているはずの静が、そういった、人間が人口的に作り出した思想体系を信じているのが裕美には奇妙に思えたのである。
宗教なんて未完成だし、矛盾だらけなのは承知してるわ。でも、ろくな答えのないこの世の中では、比較的きれいな答えの一つだと思うわ
きっと、こういう奴が戦争に行って、たくさんたくさん喜んで人を殺したんだ。命令だ、国のためだと言って楽しんで殺しまくったにちがいない。そういう幸運な奴が戦争中にはいっぱいいたんだ。こいつは今もの凄く不幸なんだ。こんなつまらない、こんな平和な時代に生き、合法的に人を殺す機会のない自分を憐れんでいる。やり場のないエネルギーに毎日絶望しているーー
優しい人間、誰にでも親切な人間なんて信じない。自分がそうしたいと思う者にだけ、無償の愛情を注げる者の方がよっぽど正しい。彼女は、目の前で忠彦たちと一緒に無邪気な顔でメロンをパクつく少年に、感動のようなものを覚えた。
まるで誰かが噂しているのを聞いていて、その人物がまた噂を本当にしてしまうのではないかと恐れているかのように、皆後ろを気にしながら喋っているようだった。しかし、一方で生徒たちは興奮していた。自分たちが噂することで、何かに参加しているような気持ちに、何かを期待する少し残酷な気持ちにみんながなっているようだった。
梅雨明けは遅く、相変わらずポトリと黒い絵の具を落とした水彩画のようなどんよりした雲が広がり、かすかににじむオレンジ色が夕暮れの時間であることを示してした。
このゼツボウテキな風景を守るためなのかな? 年寄りしかいない田んぼ、その田んぼに流れ込む工場廃水、野放しの色彩にあゆれたのっぺらぼうの町、いつも口を開け生き方も話し方も醜い若い女、去勢されたような坊主頭の中学生、他人が自分よりもいい生活をしていないか疑っている主婦、やりたくない仕事で擦り切れたサラリーマン、スナック菓子とファーストフードでブクブク太った子供。こんなものを守るために僕たちは戦場にやられるのかな?
人間というのは忘れやすいものだ。ついこのあいだまでセーターを重ねて着ていたこと、隙間風の冷たさにぶつぶつ文句を言っていたこと、ようやく半袖の服に腕を通したこと、制服のシャツが乾かず母親が愚痴をこぼしていたことなどを、この青空の前にはきれいさっぱり忘れてしまっている。こうして懲りもせず、春だ梅雨だ夏だと毎回新鮮に大騒ぎできる、忘れるということはなんとも素晴らしいことだ。
自由にしてやったんだから、さあ決めてみろ。やりたいことがいっぱいあるんだろ? 勉強なんか大嫌いなんだろう? じゃあとっとと始めたらどうだい、自分の人生とやらを。何を犠牲にして、何をして食べていくのか、どういう人間になりたいのか、右を歩くか左を歩くか。さあさあ、早く始めたらどうなんだい? 何かを決められる人というのは、よほど恵まれている人かよほど選択肢がないかのどちらかだ。けれど、世の中はそのどちらでもない人が圧倒的多数を占めている。
あたしは帰らなくては。あの、光あふれる退屈で懐かしい町に。
みんな何も考えてないし、何も感じてない。そのくせ傷つけられることだけにはえらく敏感でさ。日本人に生まれたっていうのも間違いだったかもな。人と違ったことをするのは恥ずかしいことだとちっちゃい頃から呪文のように教えこまれる。何か思いついたことをしようとすると、寄ってたかって押し倒され踏みつぶされる。俺は、あの義務教育とやらを九年かかって……九年もだぜ! ようやく終わった時には本当にホッとしたよ、ああなんて無駄な時間だったんだろうって。ひたすら我慢して、自分の好きなものを好きだとも言えず、嫌いなものや面白くないものを有難がって、もうこんな歳だ。
この日に、娘に下着を買ってもらうと、娘に下の世話にならなくて済むんですって。
あたしは口をあんぐりと開けてしまった。なんで? なんで? あたしのお母さんなのに。今こうしてニコニコ笑ってて、くるくる働いてるお母さんがなんでそんなことする必要があるの? あたしのお母さんが病気になったり、いなくなったり、ましてやぼけたり死んだりするはずがないじゃない? だって、あたしのお母さんなんだから。
引用:『球形の季節』恩田陸著(新潮社)
球形の季節を読みながら浮かんだ作品
著者:アゴタ・クリストフ
翻訳:堀茂樹
出版:早川書房
ページ数:301
アゴタ・クリストフの『悪童日記』ですか。
なぜか出てきた子供が悪童日記に出てきた双子を連想させました。とっても面白い小説なので読んだことがなければ、ぜひ。続編もあります。
レビューまとめ
ども。読書エフスキー3世の中の人、野口明人です。
Amazonのレビューや、読書メーターというサイトで、恩田陸らしいというレビューを沢山読みました。恩田陸の作品をまだまだ全然読んでいないし、吉川英治文学新人賞や本屋大賞をとった『夜のピクニック』もまだ未読なので、恩田節というのがわからない僕としては、『六番目の小夜子』と『球形の季節』で判断しないといけないわけですが、それでも充分に恩田陸が好きになりました。
レビューの中で一番頭に残ったのは「走り抜けた先に地面がなかったみたいな感覚」という言葉。あぁ。確かに。フワフワと終わったなと。ただこういう夏目漱石のこころのような結末を最後まで書かないのは嫌いじゃないんですよね。どっちやねん、先生は助かったんか?間に合ったんか?的なラストは。
前回もリドル・ストーリーという言葉を紹介しましたが。
そのラストに至るまでに心を揺れ動かす場面があって、読んでておもろいなぁ、この本終わって欲しくないなぁっていう感じがあると、ラストがフワっとしてもいいのかなと。
まぁ、『六番目の小夜子』の方が個人的にはグワングワン持って行かれましたが。
でもこの作品の方が、なんか色々と人間の感情がぶつけられていて、読みながら、あ、このシーンあれに似てる!やっぱり恩田陸は沢山本を読んでいる作家なんだなと思わせる部分が多かったです。
あ。最後にちょっと個人的な、至極個人的な好き嫌いの話。
別に僕は地方都市に住んでもいないし、閉塞感のある町でもなかったですが、このままどこへも行けずに人生が終わってしまうのではないか…という焦燥感のようなものはずっと持っていたので、感情移入してしまう部分もありました。
そういう感覚だからか、登場人物の坂井みのりの部分だけが読んでいてイライラしました。彼女が一番強いって感じに書かれてはいるんですけどね。くそー!一番強いのはわかるけど、認めたくねーと。
ではでは、そんな感じで、『球形の季節』でした。
ここまでページを閉じずに読んで頂いて本当にありがとうございます!
最後にこの本の点数は…
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球形の季節 - 感想・書評
球形の季節¥ 590
- 読みやすさ - 69%
- 為になる - 74%
- 何度も読みたい - 76%
- 面白さ - 88%
- 心揺さぶる - 83%
78%
読書感想文
前作に比べると好き嫌いがハッキリ分かれそうな作品。でも一度ハマるとページめくりが止まらない。荒削りな部分や乱暴な部分が多く、読みにくさもあると思うけど、面白さは安定してある。ぜひ水泳の授業のシーンは読んでもらいたい。