- 著者:マーサ・スタウト
- 翻訳者:木村博江
- 出版社:草思社
- 作品刊行日:2006/02/02
- 出版年月日:2012/10/10
- ページ数:272
- ISBN-10:4794219296
良心をもたない人たちというマーサ・スタウトが書いた本を知ったのは何について調べている時だったでしょうか。誰かのブログの中で紹介されていて、飛んだリンク先のAmazonで異常心理学・催眠術ランキング1位だったのが強烈に頭に残っています。
異常心理学。そして催眠術。両者ともに怪しくも興味深い響き。しかし、その時は怪しいが勝ってしまって見事にスルーしました。触らぬ神に祟りなしとも言いますので。
そんな中、テレビではなんとも悲しい事件を放送していました。どの事件とは言及しませんが、あまりにも酷い事件。そして僕は思いました。何なんだろう。この人達は…と。
この人達。それは犯人の事だけではありません。記者会見で悲しむ関係者の泣き崩れる顔を写真でパシャパシャ撮っていたカメラマンと、全く意味のわからない質問をする記者たち。
そして連日のようにお花を献上しにくる人々。それを撮るカメラマン。それを観てしまう僕。
僕は道に山盛りになった花束を観て、こう思うのです。
「あの花、一体誰が片付けるんだろう」
なんとなく十数年前に自分の身近に起きた放火事件のことを思い出していました。山盛りになった花束を無心で片付ける頃。新たに起きた放火。そしてまた腸煮えくり返る気持ちになる。
なんでこんな光景が平然と放送されているのだろう。この放送が新たな犯罪を生み出すかもしれないのに。この花束が新たな犯罪を助長するかもしれないのに。
異常だ。こう考えてしまう自分も含め、何か全体的におかしくなってきている。
そこで僕は『良心をもたない人たち』というタイトルを思い出しました。そうだ。あの本を読んでみよう。こうして心理セラピストを25年続けたというマーサ・スタウトの本を手に取るわけですが、それは恐るべき言葉から始まりました。
二五人に一人が良心をもたない
引用:『良心をもたない人たち』マーサ・スタウト著,木村博江翻訳(草思社)
25人に1人とは単純に考えて4パーセントです。ガリガリ君の当たり棒でさえ32本に1本なのに、それを上回る確率。最近のスマホゲームのレアガチャですらそんな高い確率を叩き出してくれないでしょう。
これが当たりクジなら何の問題は無かったのですが、恐るべき言葉となったのは、マーサ・スタウトが良心をもたない人たちをもっとわかりやすい言葉でこう呼んだからです。
25人に1人がサイコパスと…。
スポンサードリンク
小説『良心をもたない人たち』 – マーサ・スタウト・あらすじ
読書エフスキー3世 -良心をもたない人たち篇-
あらすじ
書生は困っていた。「試食コーナーのかわいいあの子に会いに行く為に試食するのは…」と仕事中に寝言を言ったせいで、独り、無料読書案内所の管理を任されてしまったのだ。すべての本を読むには彼の人生はあまりに短すぎた。『良心をもたない人たち』のおすすめや解説をお願いされ、あたふたする書生。そんな彼の元に22世紀からやってきたという文豪型レビューロボ・読書エフスキー3世が現れたのだが…
良心をもたない人たち -内容紹介-
想像してみてほしい――もし想像がつくなら、の話だが。
あなたに良心というものがかけらもなく、どんなことをしても罪の意識や良心の呵責を感じず、他人、友人、あるいは家族のしあわせのために、自制する気持ちがまるで働かないとしたら……。引用:『良心をもたない人たち』マーサ・スタウト著, 木村博江翻訳(草思社)
良心をもたない人たち -解説-
流行病のように思われている摂食障害に悩む人の率は、三・四三パーセントで、反社会性人格障害よりもほんのわずか少ない。注目を浴びがちな統合失調症として分類される障害は、私たちの約一パーセントにしか発症しない――反社会性人格障害の四分の一である。そして疾病管理・予防センターの統計では、アメリカ国内で罹病率が「危険なほど高い」とされている結腸癌の割合は、一〇万人に四〇人――反社会性人格障害の一〇〇分の一だ。
pp.18-19
ふつうの人は、民族の大量虐殺と、たとえば、会社で同僚について平然と上司に嘘をつく行為とのあいだに、共通点を見いださない。だが、そこにはたしかに、ぞっとするような心理的共通点が存在する。単純だが底が深い共通点。つまり、自分が道徳や倫理に反した行為や、怠惰、利己的と思える行為を選ぼうとしたとき、それを抑えようとする内的メカニズムが欠けているのだ。
p.21
一般的な認識とは逆に、サイコパスの多くは殺人者ではない。少なくとも自分の手で殺すことはない。それは統計からだけでもわかる。アメリカでは人口の四パーセントがサイコパスだが、刑務所の中や、ギャングのいる地域や貧民街、戦争で破壊された地域をのぞき、殺人者がいる割合はそれよりはるかに低い。
p.74
私たちは、まったく害のない相手に、だれかが危険で邪悪な復讐をくわだてるとは考えもしない。考えもしないことなので、実際にそれが起きても私たちの目には見えない。強欲なサイコパスのとる行動はあまりにも突飛で、あまりにも理不尽なことが多いため、私たちにはそれが意図的なものだとは考えにくく、起きたという事さえ信じられない。そのため、サイコパスの本性は、なかなかまわりの人たちに見抜かれない。
p.108
サイコパスは自分のまわりの世界を気にしないが、その中にまぎれこむことは必要であり、まぎれこみたいと思っているものだ。
p.184
サイコパスは、相手に自分の正体がばれそうになったとき、とりわけ空涙を使う。だれかに追いつめられると、彼らは突然哀れっぽく変身して涙を流すので、道義心をもつ人はそれ以上追求できなくなってしまう。あるいは逆の出方をする。追いつめられたサイコパスは、逆恨みして怒りだし、相手を脅して遠ざけようとする。
p.128
集団の中に住みついてイットにたいして、その集団の指導者が排斥の命令をくだした場合は、なんでもありになる。良心はもはや必要なくなる。良心が私たちの行動を抑制するのは、仲間同士にたいしてであり、イットにたいしてではないからだ。
p.85
ロバート・ヘアがみずから作成した精神病質チェックリストについて、「(素人が)自分自身やそばにいる人を、これを使って診断してはならない」といましめているように、軽々しくこの名称を人にあてはめ、排除すべきでないことは、強調しておきたい。
p.265
- 世の中には文字通り良心のない人たちもいるという、苦い薬を飲みこむこと。
- 自分の直感と相手の肩書――教育者、医者、指導者、動物愛好家、人道主義者、親――が伝えるものとのあいだで判断が分かれたら、自分の直感にしたがうこと。
- どんな種類の関係であれ、新たなつきあいがはじまったときは、相手の言葉、約束、責任について、「三回の原則」をあてはめてみること。
- 権威を疑うこと。
- 調子のいい言葉を疑うこと。
- 必要なときは、尊敬の意味を自分に問いなおすこと。
- ゲームに加わらないこと。
- サイコパスから身を守る最良の方法は、相手を避けること、いかなる種類の連絡も絶つこと。
- 人に同情しやすい自分の性格に、疑問をもつこと。
- 治らないものを、治そうとしないこと。
- 同情からであれ、その他どんな理由からであれ、サイコパスが素顔を隠す手伝いは絶対にしないこと。
- 自分の心を守ること。
- しあわせに生きること。
道者萬物之奧。善人之寳、不善人之所保。美言可以市尊、美行可以加人。人之不善、何棄之有。故立天子、置三公、雖有拱璧以先駟馬、不如坐進此道。古之所以貴此道者何。不曰求以得、有罪以免耶。故爲天下貴。
(道なる者は万物の奥。善人の宝。不善人の保んずる所。美言は以て尊を市う可く、美行は以て人に加うべし。人の不善なるも、何の棄つることか之有あらん。故に天子を立て、三公を置くに、拱璧以て駟馬に先んずる有りと雖ども、坐して此道を進むに如ず。古の此道を貴ぶ所以の者は、何そ。求むれば以て得られ、罪有るも以て免れると曰ず耶や。故に天下の貴きものと為る。)
老子 道徳経 第62章
道(道徳=良心)とは万物の奥義である。善人の宝であり、悪人が生活できるのも道のおかげ。飾り立てた言葉によって尊敬を得るものもいれば、飾り立てた行動によって人の上に立つものもいる。ならば、善人ではないというだけでどうしてその人を捨てることが出来ようか。だから天子の即位で大臣の任命をする時に、豪奢な馬車を献上する事があるけれど、そんな事よりも座って道を守るように進言した方がいい。昔の人が道を大切にした理由はなぜだろう。それは道によって求めるものが得られ、道によって過ちが許されるからである。だからこそ道はこの世で最も貴いものになっているのだ。
天道無親、常與善人
(天道は親無し、常に善人に与す)
老子 道徳経 第79章
天のやり方にはえこひいきがない。だからこそそれは常に善人の味方をしてくれるのだ。
批評を終えて
いつもより少しだけ自信を持って『良心をもたない人たち』の読書案内をしている書生。彼のポケットには「読書エフスキーより」と書かれたカセットテープが入っていたのでした。果たして文豪型レビューロボ読書エフスキー3世は本当にいたのか。そもそも未来のロボが、なぜカセットテープというレトロなものを…。
名言や気に入った表現の引用
流行病のように思われている摂食障害に悩む人の率は、三・四三パーセントで、反社会性人格障害よりもほんのわずか少ない。注目を浴びがちな統合失調症として分類される障害は、私たちの約一パーセントにしか発症しない――反社会性人格障害の四分の一である。そして疾病管理・予防センターの統計では、アメリカ国内で罹病率が「危険なほど高い」とされている結腸癌の割合は、一〇万人に四〇人――反社会性人格障害の一〇〇分の一だ。
pp.18-19
およそ二五人に一人の割合でサイコパス、つまり良心をもたない人たちがいる。彼らは善悪の区別がつかないわけではなく、区別はついても、行動が制限されないのだ。
p.20
ふつうの人は、民族の大量虐殺と、たとえば、会社で同僚について平然と上司に嘘をつく行為とのあいだに、共通点を見いださない。だが、そこにはたしかに、ぞっとするような心理的共通点が存在する。単純だが底が深い共通点。つまり、自分が道徳や倫理に反した行為や、怠惰、利己的と思える行為を選ぼうとしたとき、それを抑えようとする内的メカニズムが欠けているのだ。
p.21
私たちにとって良心は現場監督であり、私たちの行動にルールをあたえ、ルールを破ったときは感情的な罰をあたえる。私たちが良心を求めたわけではない。良心は皮膚や肺や心臓と同じように、生まれたときからそなわっているものだ。言ってみれば、私たちはそのありがたみも感じていない。そして、自分に良心がない状態は、想像することもできない。
p.24
他人の視線は、たしかにほかの何よりも人に道を踏みはずさせない力をもっている。
p.39
ここで肝心なのは、良心にもとづくように見える行動の多くが、まったくほかの動機――恐怖、世間体、自尊心、あるいはたんなる習慣――にうながされている、という点だ。
p.40
やさしさはかならずしも良心と結びつくわけではない。そこそこ頭のいいサイコパスは、自分があやつろうとする相手に、短期間の間は聖者のようにやさしくなれる。そして良心をもつ人は、不本意ながら冷たい態度をとることも多い。
p.40
良心はおこなったり、考えたりするものではない。私たちが感じるものだ。言葉を変えると、良心は行動でも認識でもない。良心は本来、“情動”すなわち一般に感情と呼ばれているものの中に、存在している。
p.41
心理学的に言うと、良心はべつの生き物(かならずしも人間とはかぎらない)ないし人間の集団、あるいは人類全体への感情的な愛着から生まれる義務感である。良心はだれか(あるいはなにか)との感情的な愛着なしには存在しない。つまりは良心は、いわゆる“愛”と呼ばれる一連の感情と密接にかかわっているのだ。この結びつきが、良心にエネルギーをあたえる。良心がその持主に絶大な力をふるい、混乱と困惑を引き起こすのもそのためだろう。
p.42
良心は他者への感情的愛着ーーそこにはあらゆる感情が含まれるが、とくに愛、思いやり、そしてやさしさーーから生まれる義務感である。
p.53
「多くの人はサイコパスの強くて感情のない、“捕食動物的”な目で見つめられると、抵抗できにくくなる」
p.68
一般的な認識とは逆に、サイコパスの多くは殺人者ではない。少なくとも自分の手で殺すことはない。それは統計からだけでもわかる。アメリカでは人口の四パーセントがサイコパスだが、刑務所の中や、ギャングのいる地域や貧民街、戦争で破壊された地域をのぞき、殺人者がいる割合はそれよりはるかに低い。
p.74
サイコパスは自分の本性がわかっているだろうか? 仕事の中で、私はこのような質問を何度も受けた。とりわけサイコパスによって自分の人生を狂わされた人たちは、その点に関心をもっていた。全く良心を欠いた人生を送る人間がいるとしても、少なくとも本人はその事実を認識すべきだと考えたくなるのが人情かもしれない。
p.75
サイコパスには自意識も欠けている。ほかの人ときずなを結べないばかりか、自分自身との関係も非常に希薄なのだ。
p.76
良心のない人が妬み、ゲームの中で破壊したいと望むのは、良心をもつ人の人格だ。そしてサイコパスが標的にするのは地球そのものや、物質的世界ではなく、人間である。サイコパスはほかの人びとにゲームをしかける。彼らは無生物の威力には興味をもたない。世界貿易センタービルが爆破されたのも、ねらわれたのはその中に人がいたから、そして大惨事を見聞する人びとがいたからだ。
p.77
私たちの良心は、ときとして善悪の判断力や道徳意識とはまったく無関係な、風邪のウィルスや、寝不足、車の事故、歯痛などに大きな影響を受ける。良心はなくなることはないが、体が衰弱したときは活力や集中力を失う。
p.80
良心が悲劇的な障害によって破壊されることもある。たとえば統合失調症などの精神障害で、個人が妄想によって行動する場合だ。人間の脳がそのような障害を受けると、「声が私にやれと言った」という言葉が、冗談ではなく恐ろしい現実となる。そうした病気が一進一退する合間に、患者が正気を取りもどすこともある。そして自分が意志や良心に反して、妄想に突き動かされて行動したことに気づくのだ。
p.81
人びとの目にオサマ・ビン・ラディンが人間とは映らないからだ。『悪の起源』を書いたアーヴィン・スタウブの言葉を借りれば、彼は「われわれの道徳世界から排除された」存在である。彼は人間ではなく、“もの”なのだ。そして不幸なことに、イットに変わった人間は、それだけほかの人びとを恐れさせる。
p.84
人類の歴史全体を通じて、人びとは罪のない多くの存在を敵視し、イットとして扱ってきた。歴史の折々に人間として扱われなかった民族やグループのリストは長く、私たちのほとんど大部分が含まれてしまう。
pp.84-85
集団の中に住みついてイットにたいして、その集団の指導者が排斥の命令をくだした場合は、なんでもありになる。良心はもはや必要なくなる。良心が私たちの行動を抑制するのは、仲間同士にたいしてであり、イットにたいしてではないからだ。
p.85
なぜ人類はこの悲惨な事態を、壊れたレコードのように何度もくり返すのか。なぜ私たちは私利私欲や、自分が過去に体験した心理的問題にこだわる指導者の存在を許し、その煽動にのって戦争にまで突き進むのか。なぜスキップのような人間に、ほかの人たちを支配させるのか。私たち一人一人の良心はどうなっているのだろう。なぜ私たちは自分の感じたままに立ち上がらないのか。
一つ言えるのは、私たちが催眠状態に近い状態になるということだ。私たちは死ぬのはイットにすぎないと考える。もちろんつねに恐怖はつきまとい、無力感も感じる。私たちは群衆を見まわして、こう考える。多勢に無勢だ。ほかの人たちはだれも反対していない。あるいは、こんなふうにあきらめる。世の中はこんなものだ。政治というのはいつもこうだ。こうした感情や考え方は、私たちの道徳感を沈黙させる。p.86
「かなりの割合を占める人が、しかるべき権威からの命令だと了解したとき、その行為の内容にかかわりなく、また良心の制約もなしに、命じられたとおりのことをおこなう」
p.91
教育程度が人の良心を強くすると考えるのは、思いあがりであり大きな誤りだ。だが、教育が権威とされる相手の真価を見抜く力になり、それによって盲目的な服従が抑えられることがあるのは事実だ。
p.92
良心はだまされることもあり、人を殺す場合は、かならずペテンが必要になる。
p.96
スタンレー・ミルグラムは、私たちの少なくとも一〇人に六人は、えらそうに見える権威者を目の前にしたとき、いやな命令にもしたがう傾向があることを実証した。そして同時に服従しなかった者も、心理的に苦しむと指摘した。命令にしたがわなかった者は、自分を社会秩序に反した人間だと考え、自分は忠誠を誓った相手を裏切ったという思いを拭いきれない。服従は受け身であり、服従しなかった者は、ミルグラムの言葉を借りれば、「おのれの行動の重荷」を背負わねばならない。苦痛や恐怖を乗り越え、良心にしたがって行動することが勇気だとすれば、たとえ権威に逆のことを命令されても、良心をはっきりと目覚めさせておけることが、本当の強さだと言えるだろう。
p.97
強欲なサイコパスは、ほかの人たちとおなじ恵みをあたえられていない自分は、人生で不当にあつかわれていると思いこむ。そしてほかの人間の人生をひそかに破壊することによって、おたがいの立場を同等にすべきだと考える。自分は自然や環境や運命に軽んじられていると思い、ほかの人をおとしめることが、力をもつための唯一の手段と考えるのだ。
p.108
私たちは、まったく害のない相手に、だれかが危険で邪悪な復讐をくわだてるとは考えもしない。考えもしないことなので、実際にそれが起きても私たちの目には見えない。強欲なサイコパスのとる行動はあまりにも突飛で、あまりにも理不尽なことが多いため、私たちにはそれが意図的なものだとは考えにくく、起きたという事さえ信じられない。そのため、サイコパスの本性は、なかなかまわりの人たちに見抜かれない。
p.108
じつのところ、人が良心を欠いた行為で捕まるのは例外的だ。人口の四パーセントがサイコパスだとすると、刑務所はサイコパスであふれ、その他のタイプの犯罪者は入れなくなるはずだ。だが、そうはならない。
p.115
サイコパスは、相手に自分の正体がばれそうになったとき、とりわけ空涙を使う。だれかに追いつめられると、彼らは突然哀れっぽく変身して涙を流すので、道義心をもつ人はそれ以上追求できなくなってしまう。あるいは逆の出方をする。追いつめられたサイコパスは、逆恨みして怒りだし、相手を脅して遠ざけようとする。
p.128
相手にやさしさや、創造力や、鋭い洞察力を感じたとき、人は相手の実際の行動から目をそらす傾向がある。たとえば、私たちは動物が好きだと言う相手を、いい人だと思いがちだ。そして芸術家や教養人を感じさせる相手には、点が甘くなる。ひとつには、そういう人たちに異常者はいないと思っているからだ。
p.129
私たちは相手の外見でその人柄を判断しようとするが、大抵の場合うまくいかない。現実の世界では、悪者がいかにもそれらしい顔をしている事は無いのだ。狼男やハンニバル・レクター、あるいは〈サイコ〉のアンソニー・パーキンスのようには見えない。彼らはむしろ、私たちとおなじような顔をしている。
p.131
ジャッキーが罪のない患者にドリーンが邪悪な行動をとったのを知ったとき、まず頭に浮かんだのは、「なぜあの人が、こんな恐ろしいことを?」という疑問だった。サイコパスの行動を知ったとき、人びとはつねにこのおなじ疑問を抱く。しかも〈ガス燈〉の罪のない新妻と同じように、多かれ少なかれ自分の精神状態を疑いはじめる。そしてサイコパスがなにをしたか人に打ち明けると自分自身の正気が疑われるため、話すのをためらうようになり、口を閉ざしてしまう。
p.133
死刑執行の直前、ブラディ・バブズは「善い人たちって、いつも自分が正しいと思ってるのね」と言い残した。
p.136
自分にたいする不信感に加えて、たいていの人は本能的に、善悪を絶対的なものではないと捉えている。私たちは心の中で、一〇〇パーセント善人も、一〇〇パーセント悪人もいないと考えている。哲学や神学のうえでは、いないと言えるかもしれない。なんといっても、ユダヤ教およびキリスト教では、悪魔自身が堕天使なのだ。だが――心理学のうえでは、感情的な愛着にもとづく制約の感覚をもつ人びとと、その感覚をもたない人びとがたしかに存在する。そしてこれを理解しそこなうと、良心ある人びとが危険にさらされることになる。
p.137
信用できない人物は、特別なシャツを着ているわけでも、額にしるしがついているわけでもないので、私たちはおもにあて水量に頼って相手を判断する。そして、何の根拠もない「三十歳以上の人は信じられない」「男は(あるいは女は)信じられない」「だれも信じられない」といった言い方がはびこる。人はたとえ十把ひとからげであっても、なにか基準がほしいのだ。それは、だれもが警戒すべき相手を知りたがっている証拠と言えそうだが、こうした大雑把なとらえ方はなんの効果もなく、もっとわるいことに、私たちの生活に不安や不幸を生みがちだ。
相手と長くつきあう以外に、人の信頼度を測る絶対確実な基準やリトマス試験紙はない。この不確実さは人間の条件のひとつでもあり、たとえ信頼度を調べる効果的な方法が見つかったとしても、それは人を傷つける、屈辱的で不当なものと思われかねないだろう。p.140
多くの人は、悪しき事件をサイコパスと結びつけて考えたがらない。特定の人間だけが根っからの恥知らずで、ほかの人たちは違うと認めるのがむずかしいからだ。それは人間の「影の理論」とでも言うべきもののためだ。影の理論――人はだれもみな、ふつうは表にでない「影の部分」をもっているという考え方である――は、極端に言えば、一人の人間にできることは、すべての人にもできるという主張につながる。言い換えれば、状況しだいでだれもが、死の収容所の司令官にさえなれるというわけだ。
皮肉なことに、善良でやさしい人ほど、この理論の極端な形を受け入れ、自分たちも特殊な状況に置かれたら、大量殺人を犯すかもしれないと考える。だれにも少しばかり影の部分があると考えるほうが、一部の人間だけがつねに道徳の闇の部分に生きていると考えるよりも、民主的で人を糾弾するような感じが薄らぐ(不穏当なところも少ない)気がするのだ。良心が完全に欠けた人間は、実際には悪魔と同じではないが、印象はぶきみなほど近い。だが善良な人びとは、悪魔の化身の存在を信じたがらない。
もちろん、だれもが死の収容所の司令官になれるわけではないが、他人の恐ろしい行動に目をつぶる人は多い。心理的拒否反応、人をものとして見ること、権威への盲目的服従などで、それをおこなうのだ。この世界が安全ではないという問題について訊ねられたアルバート・アインシュタインは、こう答えている。「世界が危険な場所であるのは、邪悪な人間がいるからではなく、それにたいしてなにもしない人たちがいるためだ」pp.141-142
信じてはいけない相手を、どうやって見分けるか。それにたいする私の答えに、たいていの人は驚くようだ。多くの人は、正体がかいま見えるぶきみな行動や動作、おどすような言葉づかいなどを予想する。だが、私はそういうものの中に、頼りになるヒントはひとつもないと答える。最高の目安になるのは、おそらく“泣き落とし”だと。もっとも頼りになるヒント、平気で悪事をする人びとのあいだでもっとも普遍的な行動は、ふつうの人が予想するように、私たちの恐怖心に訴えるものではない。私たちの同情心に訴えるものなのだ。
pp.142-143
だれを信じるべきか判断するとき、忘れてはならないことがある。つねに悪事を働いたりひどく不適切な行動をする相手が、くり返しあなたの同情を買おうとしたら、警戒を要する。その両方の特徴をそなえた人物は、かならずしも大量殺人者とはかぎらないし、まるで暴力的なところがない場合もあるだろう。それでも友人として、ビジネスパートナーとして、あるいは結婚相手として、近づいてはならない相手と言えそうだ。
pp.145-146
研究によれば、幼児期に適切な愛着を体験すると、多くのしあわせな結果が生まれる。感情を健全に制御する能力、自伝的記憶、自分の体験や行動を反省する能力などが育つのだ。とりわけ重要なのが、のちにほかの人びとと愛のこもったきずなを結べるようになる点だろう。愛着による最初のきずなは生後七カ月目までに築かれ、たいていの乳児は最初にふれあった相手への愛着をとおして、これらのだいじな能力を発達させていく。
pp.174-175
サイコパスは古くから世界じゅうにいたようだが、ほかよりもサイコパスの数が少ない文化圏があることもたしかだ。興味深いことに、東アジアの国々、とくに日本と中国では、かなりサイコパシーの割合が低い。台湾の地方と都市の両方でおこなわれた調査では、反社会性人格障害の割合が〇・〇三から〇・一四パーセント。西欧世界における平均約四パーセントとくらべて、きわめて低い数字である。
p.181
他者にたいする義務を知識として把握することは、良心という強い方向性のある感情をもつこととおなじではない。だが少なくとも、個人主義の社会に生まれたら反社会的行動に走ったかもしれない人間から、社会に反しない行動を引き出すことはできるだろう。自分の中に人とのつながりを感じるメカニズムが欠けている場合は、社会全体が彼らにきずなの存在を強く訴える――これは、自分個人のために罪悪感なく行動できる能力をもつことは、大きな特権だと高らかに伝える西側の文化圏とは正反対だ。だからこそ、西側では家庭の中でサイコパスの芽をつむことができないのだろう。社会全体の中に、世界にたいする君の考え方は正しいとささやく声が多すぎるのだ。
p.183
サイコパスは自分のまわりの世界を気にしないが、その中にまぎれこむことは必要であり、まぎれこみたいと思っているものだ。
p.184
サイコパスがつくりだされ、社会から除外されないのは、ひとつには国家が冷血な殺人者を必要としているからかもしれない。そのような兵卒から征服者までが、人間の歴史をつくりつづけてきたのだ。サイコパスは恐れをしらぬすぐれた戦士、狙撃兵、暗殺者、特別工作員、自警団員、接近戦の名手になれる。それは彼らが殺す(あるいは殺すような命令をくだす)ときに恐怖を感じず、殺したあとも罪悪感をもたないからだ。ふつうの人びとはそんな非情になりきれず、徹底的に訓練されないかぎり、せいぜい四流の殺人者にしかなれない。相手の目を見すえて冷静に撃ち殺せる人間はふつうではないが、戦争ではそれが求められる。
p.185
現在のところ、サイコパシーは治らない。そして、かならずと言っていいほどサイコパスは治ることを望まない。
p.209
一回の嘘、一回の約束不履行、一回の責任逃れは、誤解ということもありえる。二回つづいたら、かなりまずい相手かもしれない。だが、三回嘘が重なったら嘘つきの証拠であり、嘘は良心を欠いた行動のかなめだ。つらくても傷の浅いうちに、できるだけ早く逃げだしたほうがいい。
p.211
よこしまな甘言にのぼせた個人は、愚かな行動をとる。大言壮語であおられた愛国主義も、危険である。
p.212
反射的に捕食者に頭をさげたがる動物的な傾向を克服し、不安を畏敬の念と錯覚しないようにしよう。本当の人間的な敬意とは強く、やさしく、道徳的に勇気ある人に払われるべきものだ。あなたを脅して利益をえようとする人間は、そのいずれでもない。
恐怖心を尊敬ととりちがえないことは、集団や国民全体にとってさらに重要だ。人びとに犯罪、暴力、テロの脅威をくり返し訴える政治家や、国民の増大した恐怖心につけこんで忠誠心を獲得しようとする指導者は、どちらかというと大物詐欺師に近い。pp.213-214
あなた自身の交友関係と社会生活から彼らをしめだすこと。その行動はだれの気持ちも傷つけない。傷ついたふりはするかもしれないが、サイコパスに傷つくという感情はないのだ。
あなたの家族や友人に、自分がなぜ特定の相手を避けようとするのかわからせようとしても、むだだろう。サイコパシーは、驚くほど見分けるのがむずかしく、人に説明するのはそれ以上にむずかしい。とにかく相手を避けること。
完全にしめだすのが不可能な場合は、できるだけ顔を合わせないように、計画を立てること。p.215
人がつねに礼儀正しくあるべきかどうか、真剣に考えたほうがいいように思う。一般に、“教養ある”おとなは、くり返し嘘をつく卑怯で腹の立つ相手にさえも、反射的に礼儀正しくふるまう。サイコパスはこの反射的な礼儀正しさを大いに利用し、自分の思いどおりにことを運ぼうとする。
かんじんなときには、笑顔を見せず冷たく接することを恐れてはならない。pp.215-216
いかに善意からであっても、私たちは人の行動――性格は言うまでもなく――を変えさせることはできない。この事実を学んで、皮肉にも相手とおなじ欲望にはまりこみ、相手の行動を支配しようとしたりしないこと。
p.216
サイコパスのとった行動は、あなたの落ち度ではない。あなたの責任でもない。あなたが責任をとるべきものは、あなた自身の人生だ。
p.216
私たちは「借りがある」という言葉に有無を言わせぬ力を感じがちだが、それはちがう。耳を貸してはいけない。そしてまた、「君は私とよく似ている」という言葉も無視すること。似ているはずはないのだから。
p.217
進化理論学者によると、私たちは遺伝子のもっとも大きな割合を両親、きょうだい、子どもと分けあっているので、私たちが遠い親戚や他人より両親、きょうだい、子どもに利他的になる事実にも、血縁淘汰説で説明がつくという。そして血縁淘汰によって、私たちが自分自身のエネルギーや生存のための資源を削ってまで、自分の子どもを守り育てようとする理由も説明できる。その視点に立ってみると、良心は、私たちが他人の足で歩きつづけるための遺伝的素材が入った小さなパッケージを無視しないよう、総合的にプログラムされたメカニズムなのだ。
p.226
しあわせとは、あなたの考えと言葉とおこないが、調和していること。
――マハトマ・ガンジー
p.243
良心が大きな人たちについて三つの驚くべき共通性を報告している。その三つの特徴とは、「確実性」「積極性」「自己と道徳的目標との一致」である。
p.259
良心をもっていると、あなたは自分の思いどおりにできないかもしれない。物質世界で素早い成功をなしとげるために必要なことができないかもしれない。富も名声も手に入らず、つらい目に遭うかもしれない。でも、良心の欠けたうつろな、危険好きの人たちとちがって、あなたの人生にはほかの人たちといることから生まれる温かさがある。そして迷いも、激しい怒りも、快さも、喜びも感じることができる。そして良心があれば、愛という最高のリスクを受け入れるチャンスもあたえられる。
良心は母なる自然のよき贈り物だ。その価値は歴史を振り返っても、また身近な日常の中でも、貴重なものであることはまちがいない。p.261
ロバート・ヘアがみずから作成した精神病質チェックリストについて、「(素人が)自分自身やそばにいる人を、これを使って診断してはならない」といましめているように、軽々しくこの名称を人にあてはめ、排除すべきでないことは、強調しておきたい。
p.265
良心をもたない人たちを読みながら浮かんだ作品
レビューまとめ
ども。読書エフスキー3世の中の人、野口明人です。
実はこの本を読んでいて、何度も、サイコパスは魅力的だなぁと思ってしまう自分がいました。良心が傷まずに暮らせたらどれだけ楽に生きていけるだろうと。完全に資本主義に毒されているのかもしれませんね。
どんな時も勝たねばならない。そういう風に教育されてきた自分としては、究極の形はサイコパスのような状態だと思うのです。まぁ、でも僕にはそういう素質はなく、良心の呵責に苦しんだ結果、戦う世界からドロップアウトしてしまったんですけどね。
この本の良いところは、サイコパスの存在意義について遺伝子を用いて紹介している所。たとえばもし無人島のような世界に放り出されてしまったら、サイコパスのような人間の方がサバイバルには向いています。
要はサイコパスは現代の社会のルールになじまないだけであって、状況によっては必要な場合があるという事です。
歴史の教科書に載っている豊臣秀吉やチンギス・ハーン、ナポレオン・ボナパルトは誰よりも良心を持たずに支配出来たから英雄だったのです。時代が変わってそういう人間が必要とされなくなってきただけであって、彼らが存在するのは遺伝子レベルで生き残る力が強いから。
まぁ、何が言いたいのかと言うと『世界平和』を本当に実現させるためには、そういう人たちを攻撃して消すことではなく、そういう人たちも含めてお互い距離を取って地球上に暮らすのが良いのではないかという事です。
結局、誰かを攻撃するということは誰かに攻撃されるということ。サイコパスを全員捕まえて、処刑したとしても、新たに出てきたサイコパスに同じことをされてしまうかもしれません。
それならばやはりマーサ・スタウトが言うように距離を取ってやり過ごすしかないのです。凶悪な事件があると毎回決まって外野から犯罪者に対して暴言を吐く人が出たり、犯罪者の家族に対して嫌がらせをする人がいます。
気持ちはわからないでもありませんし、被害者の気持ちを考えるともう何も言えなくなってしまうのですが、僕らはそれでもそちらの世界に毒されないように距離を取るしかないのではなかろうかと思うのです。
僕自身、中学校の同級生を良心のない人に殺された事がありました。放火によって。その時は犯人をこの世から消し去りたい気持ちも芽生えました。殺意は無かったと主張している時なんて、もう血管ブチ切れそうでした。
でも何よりも腹が立ったのは、犯人逮捕後に模倣犯が出たことです。
報道によって大きな話題になった当時、外野から言いたい放題言っているメディアや野次馬。責任がどこにあるだの、犯人の家族は何やっていただの、彼らはひたすら言論で攻撃したのです。
彼らの言っている事は正しいのでしょう。でも正しいからなんだって話です。
結果、その言論を聞いた他のサイコパスが放火を行った。模倣犯です。未だにその犯人は捕まっていない。攻撃したら攻撃される。メディアや誹謗中傷を行う人達はそれをわかっていない。ってか、彼らはもうその事件を覚えてすらいないでしょう。
僕から言わせれば、メディアで誹謗中傷を行う人達こそサイコパスを生み出すサイコパスです。
だから、攻撃されたら、それより巨大な武器を持ち攻撃をするのではなく、とにかく逃げる。逃げて逃げて逃げて、相手の目の届かない所まで逃げまくって、自分の信じる道を貫き通す。それしかないんです。それは決して無かったことにするわけではありません。
正義なんてものは悪があるから存在出来る。逆に言えば、正義がいるから悪が出現する。正しいとかの判断なんて時代が変われば変化するもの。
だったら自分の正義を相手に押し付けるような事をしても、相手の反感を買うだけで、それに見合うメリットがあるのでしょうか。正義を主張する事は副作用がデカ過ぎるのです。
…あぁ。でもこの考えって、こうやって書いている時点で誰かを攻撃しているわけで、ブーメランのように自分に返って来るんですよね。なんとも自己矛盾。
サイコパスも含めて全人類が幸せになる方法なんてないものなんだろうか。難しいなぁ〜。
あ、理由があってここまで書いて来なかったですが、25人に1人がサイコパスというのは欧米の場合であって、日本や中国、東アジアでは715人に1人と非常に割合が低いらしいですよ。…なんか最近はもっと多いんじゃないか?なんて思うんですけどね。
日本や中国にサイコパスが少ない理由についてマーサ・スタウトは確信を持って表現していなかったんですが、最近の凶悪犯罪の増加などを見ると思考の欧米化、生活の欧米化、経済の資本主義化が影響しているんではないか…なんて思います。
だからなんだって話なんですけどね。
こういう本を読むと、どうしても自分の中の矛盾に気がついてしまう。
とりあえず僕は最近のニュースを見ると、非常に心が痛んで部屋で一人落ち込む事が多いのでテレビを見ないことにしました。犯人に暴言を吐きたくもなってしまうので。非人情と言われようが、距離を取ります。無関心?それで良いのです。
犯人に怒りを持っても犯人が減るわけではないし。お花を献上しに行っても、それは誰かの仕事を増やす事になってしまうし、その姿を面白がって報道するメディアもいるわけだし。
それなら自分の庭にお花を植えて、その花を見る度に被害者が増えないように祈ろうかと。祈りは誰も攻撃しない。誰の目にも映らない。…しかし誰も救えない。
あぁ…。なんて僕はクソ人間なんだろう。無力だ。この本の中で紹介されていたアインシュタインの言葉が身に染みる。
「世界が危険な場所であるのは、邪悪な人間がいるからではなく、それにたいしてなにもしない人たちがいるためだ」
僕もきっと、世界を危険な場所にしてしまっている一人なんだろう。
ただ、マーサ・スタウトは良心の事を「感情的愛着から生じる義務感」と定義しています。この無力と感じる心もきっと、なんとかしなければならないと思う義務感から生じるものでしょう。
自分の心に良心がある事だけは誇りを持って生きていこうと思います。老子にも万物の奥義と書いてありましたし。
ではでは、そんな感じで、『良心をもたない人たち』でした。
ここまでページを閉じずに読んで頂いて本当にありがとうございます!
最後にこの本の点数は…
スポンサードリンク
良心をもたない人たち - 感想・書評
良心をもたない人たち¥ 821
- 読みやすさ - 81%81%
- 為になる - 86%86%
- 何度も読みたい - 77%77%
- 面白さ - 82%82%
- 心揺さぶる - 91%91%
読書感想文
難しい問題を扱っているし、難しい用語も出てきますが、訳者の木村博江さんの力でしょうか非常に読みやすい文章になっています。現在、人間関係に悩んでいる人で、それがなぜなのか理解出来ない状況に陥っている人は参考になる所が多いでしょう。ただ、人に対して偏見を持ちやすい人、他人の意見を聞いて、人への見方を変えてしまう人などが読むときは注意が必要だと思います。この本はサイコパスに対して敵意を持つための本ではなく、サイコパスを理解し、距離をとる為のきっかけになる本。そういう意識で読むのが良いと思います。